深く眠りし存在の
恵津子と房枝は、どちらかが体を使っている時にも、明理が体を使って心の中にふたりいる時にも、お互いの存在を見ることも接触することも出来なかった。明理は房枝とは心の中で接触は出来たが、恵津子とは出来なかった。しかし、恵津子の行動を見ることは出来た。
徐々に、房枝が行動することが増えていった。明理の、心の中でのアドバイスと、恵津子との間の記録ノートを介して、自分のすべきことを理解していった。
自分は結婚した事実はない、ましてや子どもを産んだはずもない、と言い張っていた房枝も、自分の置かれていた状況を理解するにつれて、
現実を受け入れていったのだ。
「あなたの交代人格たちは、主人格であるあなたがひとりでも、十分生きていくことができるという認識を深めています。いかがですか」
恵津子と交替して現れた房枝は、心の中を見透かそうとする視線は変わらないが、表情には生気が現れている。
「一度、故郷(くに)に帰って両親に会いたい、思います。何が起こっても、大丈夫。千尋ちゃん、千尋も連れて行って、両親に見せたい。私が産んだ実感はないけど、私の子どもですもん」
「何かあれば必ず、ここに連絡してください。私は、いつまでもあなたの味方ですから」
途端、明理が現れた。
「先生、あたし、房枝にはもう必要ありません。恵津子も納得しています。ありがとう」
松本は房枝なのか明理なのかの額に手を当てて、「出てきなさい」と呼び掛けたが、なんの手ごたえも感じられなかった。
前に座っている人物に、「あなたは、誰ですか」と、しげしげと顔を見つめて問いかけた。先ほどの明理のようであり、恵津子のようでもある。
「房枝です」
力強い声が答えた。
「どうやら、人格の統合がなったようですね」
明理という単独の人格に二度と出会えないかと思うと、寂しさが一瞬よぎった。
「治療は終わりました。もう大丈夫でしょう」
「ありがとうございました」
だが、面接室から退出していく房枝の表情が一瞬変わったことには、松本は気付かなかった。
それは、細くつり上がった目尻と横に長く引かれた薄い唇で、舌をチロと突き出すようにして、ニタリ、と嗤ったのである。