不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器
潤んだ瞳。
頬を伝う涙。
もしかすると小照さんと霧里さんは姉妹の契りを交わしただけではなかったのかもしれない。霧里さんのために自分のできることをしようとする小照さんの真剣な様子。姉妹以上の二人の絆が察せられた。
「小照さん。貴方は霧里さんのことを愛していたんですね」
「はい……わっちは花魁を愛していんした」
大尉さんは、歌の上手い娘は激情を秘めていると語った。
確かにその通りかもしれない、と僕は思った。
僕は小照さんに尋ねることがあった。
「小照さんは随分手に執心されているようですね」
小照さんははっとした様子で僕の手を離した。
警戒したような表情が読み取れた。
「どうして手に執着するようになったか教えてもらえませんか?」
「わっちはお父様のこともお母様のことも、覚えていんせん。一つだけ覚えているのは、幼い頃お母様に手を引かれて祭りに行ったことくらいでありんす。その時のお母様の手の温かさが忘れられんせん」
「霧里さんの手が欲しいですか?」
そんな問いを発すると小照さんの様子が変わった。
猫が毛を逆立てるような感じで僕を睨む。
「探偵さんはわっちが花魁の手を切ったとお思いでありんすか? わっちが花魁の体に傷をつけられるはずありんせん。あねえな綺麗な体に傷をつけるなんてとんでもありんせん」
小照さんの気持ちはよく分かった。
そんな小照さんなら僕の頼みを聞いてくれる可能性が高い。
「小照さん。貴方にお願いしたいことがあります」
明日のために僕は小照さんにあることを頼んだ。
◆
次の日。
どんよりと淀んだ空は今にも泣き出しそうだった。
正午近く、僕はサヨイと大尉さんを連れ、角海老に乗り込んだ。すでに話を通しており、犯行現場には関係者たちが集まっていた。
現場は発見された時のまま保全されてある。
しかし自然計数は多少弱まっていた。これなら自然計数の悪影響に惑わされずに推理を語ることができる。
僕は一同を見渡した。
霧里さんと馴染みだった高階中尉。
楼主の山川氏。
そして、霧里さんの妹分だった小照さん。
いずれも落ち着かない様子だ。
「さ、勇希君。貴方の考えをみなさんに披露してください。みなさん、謹んで聞いてください」
と大尉さんが声も高らかに開幕を告げた。
この瞬間が探偵として一番、緊張する。
僕は深呼吸して山川氏に向かった。
「山川さん。霧里さんは貴方にお願いをしていたそうですね。その内容を教えていただけますか?」
「それは今回の事件と関係があるので?」
「関係がないなら話してください。沈黙は疑いを呼びますよ」
仕方がないという体で山川氏は話し出した。
「身請けの話です。霧里はハッカ様に小照を身請けさせようと考えていました。遊女が客を取る前に身請けされるなど、異例中の異例ですが」
「何故そんなことをしようと?」
「それは……」
山川氏は言葉に詰まった。
僕は鋭く追及する。
「霧里さんに脅迫されていたからですよね。盗聴器の件で。何故そのようなことを?」
「廓の男にはそのような楽しみしかないのですよ。他人の弱みを握っているというのは無上の喜びです。脅迫し、屈服させた時の悔しそうな顔と言ったら……。手前どもを卑しむ連中への意趣返しです」
そこで僕は本題に入った。
「山川さん。貴方は高階中尉殿が三〇分も経たないうちに見世を去ったと証言したそうですね」
「そのとおりでございます」
相変わらず山川さんはにこやかなまま。
僕はかまわず鉄面皮を言葉で撃ち抜いた。
「しかし、高階中尉殿が見世を出るところを見たのは貴方だけです。これは不自然です。本当に高階中尉殿は登楼してすぐに見世を去ったのでしょうか。大門で人の出入りを監視する面板所の人間を厳しく問えば、真実はすぐに明らかになります」
「……」
山川氏は急に無表情になった。
肥えているだけに無表情になると人相が途端に悪くなる。
次に僕は高階中尉に対した。
「高階中尉殿。貴方は女性の首を絞めるという性癖がありますね。いずれ女性を殺してしまう可能性を考えなかったのでしょうか。このような事態に至り、貴方は窮地に陥ったのではありませんか? そこで貴方は楼主の山川氏に相談し、偽装工作を依頼して密かに見世を抜け出した。幸いにして一〇年前に女性の部位を持ち去るという猟奇殺人事件が未解決のままだった。貴方はそれに偽装することを思い付いたんです」
「違う! 私は殺しておらん!」
と高階中尉は顔を真っ赤にして抵抗の意を示した。
そこで僕は小照さんを促した。
「小照さん。頼んでいたものは見つかりましたか?」
「はい。お待ちおくんなんし」
そう答えた小照さんは現場を抜け出した。
しばらくして小箱を持って戻る。釣り人が魚を冷蔵するための保冷庫だった。
僕は小照さんに確認した。
「小照さん。これはどこにありましたか?」
「旦那様のお部屋でありんす」
やはりそうか。
釣りをするという山川氏なら持っていてもおかしくないと思っていた。
僕は小照さんから箱を受け取って、ゆっくり周囲を見回してから保冷庫を開けた。
ひんやりした冷気が漏れ出す。
高階中尉が目を逸らした。
箱に入っていたのは女性の左手首だった。美しい作りをしている。
「山川さん。説明していただけますか」
山川氏はうなだれた。
もはや言い逃れができないと悟ったのか、山川氏はぽつぽつ語り出す。
「高階中尉殿に霧里を殺してしまったと言われ、手前は好機だと思いました。これで憲兵の弱みを握ることができると。だから偽装工作に協力しました。全て菊池様の仰る通りです」
山川氏の告白を聞いて、高階中尉は血の気を失ったように青ざめた。
高階中尉はうわ言のように繰り返す。
「殺すつもりはなかったんだ……起きてみたら霧里は死んでいて……私はどうしていいか分からず……」
高階中尉はぐらぐらと揺れている。
今の地位を失ってしまったら高階中尉は一体どうやって生きてゆくのだろうか。しかし、それは僕が考えることではない。
これで容疑者は一人に絞られた。
犯人はやはりあの人だ。
僕が最初に感じた違和感。
その正体についての確信は十分な深度に達した。
僕は改めて犯人を指差す。
「貴方が犯人であることが僕は残念でなりません――小照さん」
一同の視線が小照さんに集中する。
それまで黙って聞いていたサヨイが僕に尋ねてきた。
「どういうこと? 高階中尉殿が殺したんじゃないの?」
「そう思わせようと小照さんは仕組んだんだ。そうですよね、小照さん?」
小照さんは薄く笑った。
「どういうことでありんしょうか?」
「霧里さんの遺体からは大量の睡眠薬が検出されました。おそらく高階中尉殿も睡眠薬が飲まされていたのでしょう。二人だけに、二人に同時に、睡眠薬を飲ませることができたのは、霧里さんの傍に仕えていた貴方だけなんです」
「例えそうだとしても、わっちには花魁を害する理由がありんせん」
理由ならある。
昨夜、小照さんの手が触れた時に近くした自然計数は、小照さんの動機を教えてくれた。
作品名:不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器 作家名:阿木直哉