不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器
すると高階中尉はひどく興味をそそられたようだった。
「探偵。おまえもこの女の首を絞めてみれば分かる。女の命を自分の手の中に収めた気分は何物にも代えがたい。体だけでなく、命さえも自分が握っているという充実感。妻は私を理解してはくれなかった。霧里だけが私を受け入れてくれた」
高階中尉は熱っぽく語った。
かつて日本では女性の側から離婚を申し出ることはできなかった。
もし今もその制度が続いていたとしたら高階中尉の妻だった女性はずっと泣いて過ごさなければならなかっただろう。
僕は高階中尉の間違いを正した。
「残念ですが、霧里さんが中尉殿を相手にしていたのは仕事だからだと思います。僕はサヨイを支配しようと思わないし、サヨイに自分の弱さを預けようとも思いません。サヨイが誇りに思えるような、そんな男になりたいんです」
僕はサヨイや大尉さんを促して、執務室を出て行った。
車に戻る途中、サヨイが不思議そうに尋ねた。
「勇希、あれだけで良かったの? あの人が犯人なんじゃないの?」
「いやサヨイ。真相はもう少し複雑だと思う」
事件の断片は揃いつつある。
しかし犯人を自供に追い込むには、まだ決定打に欠けるように思う。
ひとまず僕は検死の報告書が上がるのを待つことにした。
◆
深夜、僕は自宅の情報端末で、大尉さんが送信してくれた検死報告書を読んでいた。ちなみに僕の情報端末はアップル社のマックプロ。マッキントッシュはウィンドウズに比べると市場では劣勢だが、使い勝手に関しては上回っていると思う。
そんな時、大尉さんが電話してきた。
「検死報告書はもう読みましたか?」
「ええ、一通り」
「死因はやはり頸部の圧迫。凶器は首に巻かれていたリボンとのことです。しかし面白いことが分かりましたね。霧里さんから大量の睡眠薬の成分が検出されたという事実。部屋に置かれていた水差しの中にも同じ成分が検出されています。勇希君、貴方はどう思いますか?」
「確信が深まりました。しかし一つ分からない点があります。ですが、犯人は間違いなくあの人です」
犯人はやはり――。
「大尉さん。明日、関係者を犯行現場に集めてください。そこで犯人を暴き出します」
「期待してますよ。ところで勇希君。先ほど小照さんから電話がありまして。今夜、二人きりで貴方と話したいことがあるのだそうですよ」
「小照さんが?」
一体なんの用だろう。
楼主の山川氏の前では言えなかったことがあったのかもしれない。
「行くなら場所と時間をお教えします。どうします?」
「僕も小照さんに話したいことがあります。会います。小照さんの番号を教えてください」
電話を終えた僕はサヨイに一言断ることにした。
「サヨイ。人と会ってくるよ」
「誰と会うの?」
「えっと……」
深夜に吉原で振袖新造と会うなんて、ちょっと言い辛い。
しかしサヨイに隠し事はできなかった。
僕は正直に答えることにした。
「小照さんっていう女の子のことを覚えてる? その子が僕と会いたいって言うんだ。大事な話だと思う。行ってくるよ」
「そう……早く帰ってきてね」
深く追及しないサヨイの対応がありがたかった。
そんなサヨイを裏切るような真似はしたくない。
「分かった」
僕は答えて、ハイヤーで吉原に向かった。
ネオンやテールランプが揺らめく。
車窓から見える街の夜景を眺めながら僕は小照という振袖新造のことを思った。姉代わりだった人を失った小照さんの気持ちは如何ばかりか。そう思うと僕の胸は痛む。何故このような事件が起きてしまったのだろう。犯人の目星は付いたが、その動機までは解明できていない。
やがて吉原に着いた。
日が変わりそうな時刻だというのに吉原は賑わっていた。こういう場所であるだけに夜の姿こそが真実なのだろう。では遊女たちが本当の姿を見せてくれるのはいつなのか。あるいは、遊女たちが自分をさらけ出せる時間などないのかもしれない。
指定されたのは吉原神社だった。
吉原神社は明治五年に創建されて以来、廓の鎮守を司ってきた。お祀りしている弁財天という神は、七福神の中で唯一の女性として知られている。知恵、技芸、財物の福徳を有する弁財天は遊女たちの神としてまさに相応しいと言えるだろう。
厚い雲が月も星も隠す。
深夜の境内は暗く、闇が淀んでいた。
周囲の木々が神社の内と外を遮っており、密会には最適な場所と思われた。
密会。
その状況が僕の心を高鳴らせる。
彼女は明るい場所から隠れて、僕になにを話そうというのか。
僕はアップル社の知能電話で小照さんに電話を掛けた。
「今、吉原神社に着きました。小照さん、どこにいますか?」
すると、
「探偵さん?」
という鈴を転がすように声が発せられ、闇の中で人の輪郭が浮かび上がる。
小照さんだった。
今は振袖ではなく鳥柄小紋を着ていた。さすがに振袖のままでは目立つと思ったのだろう。
僕は小照さんに歩み寄った。
「こんな時間にどうしたんですか? 山川さんに知られたら大変でしょう?」
「罰はあとで受けんす。わっちはまだお座敷を開くことができないでありんすから。ここでお会いするしかなかったんでありんす」
闇の中で小照さんの瞳が揺れた。
痛いほど真剣さが伝わってくる。
黒目がちな小照さんの目に吸い込まれそうになる自分がいた。人気のない夜の神社で僕は小照さんと二人きり。
小照さんから甘い芳香が漂ってくる。得も言えぬ甘い香りに僕は酔いそうになる。小照さんは僕と同年代の少女。子供から大人に花開こうとする蕾は、薄皮を剥げばどんな味がするのだろう。その甘露を想像して僕は震えた。
いやいや。
僕はそういうつもりで来たわけじゃないから! サヨイにもすぐ帰るって約束したし!
冷静を装って僕は小照さんに尋ねる。
「それでお話というのは?」
「それは……」
ここまで呼び出したというのに小照さんは言い辛そうな顔をしていた。
僕は優しい声を出して小照さんを促す。
「大丈夫。ここで聞いたことは他言しませんから」
「旦那様のことでありんす」
と小照さんは躊躇いがちに話し出した。
不意に風が出てきた。
吹き付ける風に木々の枝が騒めく。
「花魁は旦那様が見世に虫を仕掛けていたと言っていんした」
「虫?」
「盗聴器のことをわっちたちは虫と言っていんす。花魁はそのことを内密にする代わりに旦那様にお願いするんだと言っていんした。花魁が害されたのはそのことが関わっているのではないかと思うんでありんす」
やはり霧里さんは山川さんを脅迫していたということか。
話しているうちに小照さんは段々高ぶってきたようだった。
堰を切ったように語調が強くなる。
「どうか花魁の手を取り返しておくんなんし。取り返してくれるならわっちはどねえなことでもしんす。だから探偵さん、お願いしんす」
小照さんは僕の手を握ってきた。
瞬間、自然計数が僕の脳に押し寄せてきた。
――姉妹。別れ。殺害。真意。自由。
この自然計数が意味するものは明白だった。
にわかに雲の合間から月が顔を出して、小照さんを照らし出した。
震える唇。
これまで僕が見たこともないような真剣な表情。
作品名:不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器 作家名:阿木直哉