不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器
「実は吉原で殺人事件が起きまして。それが実に微妙な問題を孕んでいるんですよ。ここは口の堅い方に協力をお願いしたいところでしてね。特に勇希君。貴方のような能力のある方が必要なんです」
助手席から振り返った大尉さんは得意げな顔をしていた。
こちらの答えなんて分かり切っていると言いたげな表情だ。
「それがどうしてサヨイの事件と関係しているって言うんですか?」
「殺されたのは霧里(きりさと)という花魁です。なかなかの人気者でしてね。彼女は実に美しかった。死んでしまったのが残念です。犯人を射殺したい気分ですよ。――おっと、話が逸れました。その霧里の、手首を切断された遺体が見世(みせ)で発見されたんです。さて勇希君、サヨイさんが殺害された事件の特徴はなんでした?」
「遺体の一部が切除されていたこと、でしたよね」
と答えた僕の口は重かった。
サヨイは一〇年前、都内で殺害され、両目をくり抜かれた状態で発見された。今サヨイにはめ込まれているのは人工的に培養された生物的な義眼だ。
事件の犠牲者はサヨイだけではない。多くの女性が同一犯によるものと思われる事件の犠牲者となった。
いずれも体の一部を持ち去られて。
犯人は女性の美しい部位を集めていたのだろうか。
「ハッカさん」
とサヨイは座席から身を乗り出した。
心なしか声が沈んでいる。
「犯人の目星はついているんですか?」
「今はなんとも。ただ犯人であって欲しくない人物ならいます。今回は遊びが過ぎてしまったようですね。被疑者の一人になってしまったのは身から出た錆と言う他にありません。遊郭と言うのは華やかな場所ですが、どうにも色に狂ってしまう人がいるようで。いやはや困ったものです。勇希君、貴方も遊郭で遊ぶ時は気を付けないといけないですよ」
はは、と大尉さんはごく普通の世間話をしているかのように笑う。
しかし、大尉さんの言葉はサヨイの怒りを誘ったようだ。
「勇希はまだ一四歳ですよ。悪い遊びに誘わないでください」
どうも違う方向で。
サヨイは真面目な女性だ。遊郭で遊ぶ男を快く思っていない。
だが大尉さんは意に介した様子がない。
「まあまあ、これも勇希君の社会勉強だと思って。勇希君、吉原で分からないことがあったら私が教授しますよ」
「ハッカさん!」
とサヨイが声を荒げる。
すっかり元気を取り戻したようだ。
「冗談ですよ」
大尉さんはサヨイの反応を楽しんでいる。もしかして遠まわしにサヨイに気を遣ったのかな。表面的には暖簾に腕押しと言った印象を与えるけど。
大尉さんという人は本当につかみどころがない。二〇代前半と言った若々しさのある人だが、実際にはもっと年かさなのかもしれない。大尉さんのサヨイへの接し方は、姪っ子をからかう親戚のおじさんにも似ている。時々サヨイに洋服を贈るなんて行動もそれに近いように思う。
一体どういう人なんだろう?
「そろそろ吉原が見えてきましたね。大門からは歩いて行きます」
吉原遊郭――浅草寺の裏手に二万坪余りの敷地を構え、数千人の遊女を抱える東京最大の歓楽街。地方に住む男性の中には一度は行ってみたいと語る人もいると聞く。もちろん僕は行ったこともないし、行きたいと思ったこともない。いや、ちょっとは気になるけど。
そこで遊女が手首を切られた遺体となって発見されたと大尉さんは言う。
一体なにが起きたのだろう。
そして、この事件にサヨイを殺害した犯人が関わっているのか。
僕の想いを乗せて車は吉原へ走った。
◆
「これから行く見世は角海老(かどえび)というんですけどね。歴代の総理大臣が遊びに来るほど格式の高い見世なんですよ」
大尉さんは通りを歩きながら滔々と語る。
運転していた大尉さんの部下は車で待機している。
華やかな街並みだった。人力車が走っているなど近代の匂いを色濃く残す。遠くから聞こえてくる楽器の音色にまるで夢に迷い込んだかのような感覚を覚える。道行く男たちの顔は心なしか夢見心地のようだった。一体どんな夢に惑っているのだろう。
吉原は、江戸時代の吉原大火、大正時代の関東大震災によって二度全焼している。しかし町の構造は江戸時代の土地計画のままだと聞く。確かに道の幅が狭い印象を受ける。人通りが多いせいで余計にそう思うのかもしれない。
大尉さんが案内した角海老という見世は木造三階建てでお屋敷のような佇まいだった。豪商の持家であったとしても、そう驚かなかっただろう。
「立派なお屋敷ですね……」
とサヨイが上を見上げる。
釣られて僕も上を向く。
楼閣の上階で身を乗り出していた振袖の少女と目が合った。振袖は赤地に羽衣模様。年齢は僕と同じ一四歳くらいだろうか。目鼻立ちが整っており、将来はきっと怖いくらいの美人になると思われた。
柔らかな春風に少女の長い後ろ髪がなびいた。
少女は恥ずかしそうに引っ込んでしまった。
猫に逃げられてしまったような、そんな印象を受けた。
大尉さんが訝しげに尋ねる。
「どうしました、勇希君? 緊張しましたか?」
「いえ、大丈夫です。入りましょう」
僕らは犯行現場へ案内されることになった。
案内してくれたのは山川高志という楼主だった。五〇がらみの小太りの男性で、にこやかな笑みが顔に張り付いている。腹の底で何を考えているのか見えてこない、油断ならない人物に思えた。いや、初見で人を疑ってしまうのは僕の職業病か。
店内には甘く粉っぽい匂いが漂っていた。おそらく麝香(じゃこう)だろう。麝香には性欲を刺激する作用もあると聞く。このような場所には相応しい匂いと言えるかもしれない。
途中ですれ違う遊女たちが興味津々と言った様子で僕に目を注ぐ。さすがに未成年で吉原に行けば悪眼立ちするのは無理もない。
山川氏は時折振り返りながら大尉さんにしゃべる。
「ハッカ様。こちらの坊ちゃまが話に聞く少年探偵で?」
「そうですよ。菊池勇希君と言います。難しい事件をいくつも解決しているんです」
「それは頼もしいですな」
気恥ずかしい思いがした。
少年探偵と呼ばれるのにはいまだに慣れない。
ふと外を見れば、池を設けた日本庭園が春の日差しを受けて、きらきらと輝いていた。
池を設け、庭石や草木を配し、四季折々の景色が楽しめるのだろう。流水が深山から溢れ、大きな流れになってゆく音が聞こえてくるような味わい深さがあった。
つい足が止まった。
ここが現実と地続きであるということを一瞬忘れてしまう。
先ほど大尉さんは、この見世が歴代の総理大臣が遊びに来るほど格式が高いと話していた。国の行く末を双肩に担う政治家たちは、ここで浮世の憂さを忘れたのだろうか。あとで婦人団体にあれこれ言われてしまうのだから、精神的な安らぎはすぐに霧散してしまう気もする。
こんなところで殺人事件が起きたなんて、にわかには信じられない。しかもサヨイを殺害した事件と関係があるかもしれないなんて。
不意に手に柔らかく冷たいものが触れた。
サヨイの手だった。
「勇希、どうしたの?」
「なんでもないよ」
「もしかして心配してくれてるの?」
サヨイは生前の記憶がない。
それでもサヨイは今にも折れそうなほど心細げだった。
作品名:不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器 作家名:阿木直哉