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不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器

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 サヨイと共に玄関に向かうと、見知った軍人が立っていた。灰緑色の制服に軍刀という姿は憲兵隊に独特のもの。ハッカという憲兵将校で、階級が大尉なので僕は大尉さんと呼んでいる。仕事柄、僕は大尉さんと出会うことが多い。ただ引っかかるのは、やたらサヨイにべたべたしてくることだ。サヨイも、もう少し距離を取ったっていいじゃないか。
 今だって、
「サヨイさん、今日も麗しいですね」
 なんてことを言いながらサヨイの手を取って口づけするのだった。
 大尉さんは顔立ちが整っていることもあって、そんな麗々しい所作がやけに板についている。軍人でありながら肩のあたりまで髪を伸ばしている点も関係しているのかもしれない。軍人と言えば坊主頭という印象があるが、大尉さんはそういった印象の真逆を行く。
 なんと言うか大尉さんはいつもきらきらしていて、まともな軍人には見えない。松林のような爽やかな匂いだし、声も男の癖に少し高い。その声は、溶かした琥珀から立ち上る香気を思わせるような、どこかねっとりした響きがあった。
「いえ、そんなこと……」
 サヨイもまんざらでもない様子だ。
 む、今ちょっと腹がムカッとした。
 思わず僕は声が尖ってしまった。
「大尉さん。こんな朝早くになんの御用ですか?」
 用を済ませて早く帰ってくれないかな。
 そんな僕の内心を知ってか知らずか、大尉さんはこんなことを言う。
「悲しむべきか喜ぶべきか事件が発生したもので。ご足労願いたい」
「僕は警視庁の諮問探偵であって、憲兵隊に所属しているわけじゃないですよ」
 僕と大尉さんの間で火花が散った。
 警視庁は複雑化する一方の犯罪に対抗すべく多くの諮問探偵を抱えている。僕もその一人。一四歳の僕は諮問探偵の中で最年少であり、そのせいで少年探偵なんていう恥ずかしい名前で呼ばれることもある。
 サヨイが心配そうに僕と大尉さんを交互に見る。
 憲兵隊が独自に定めた独逸っぽい軍服。僕の級友たちにはいたく人気がある。憲兵隊は国民に好印象を持ってもらおうと努めているのかもしれない。しかし実際には幅広い分野で強権を発揮する治安部隊だ。しかも僕は警視庁に雇われているのであって、憲兵隊に協力する義務はない。
 このままお帰りいただこう。
 そう思った矢先、大尉さんは思わぬことを言い出した。
「さて。サヨイさんがかつて殺害された事件とよく似た事件が発生した、と私が言ったら。勇希君、貴方はどうします?」
 大尉さんは勝ち誇ったような表情を浮かべる。
 目鼻立ちの整った顔立ちだけに、大尉さんがこういう表情をすると悪巧みをしているように映る。実際、悪い人なんじゃないか。
 失われたサヨイの過去が関わっていると言われたら、僕はこう答えるしかない。
「分かりました。準備をしますから少し待ってください」
「ええ。勇希君、貴方はやはり母親想いの良い子ですね。実に好ましい」
 嫌味にしか聞こえない。
 仕方なく僕はサヨイに向き直った。
「サヨイはここで待っていて。なにか分かったら電話するから」
 サヨイを事件に巻き込みたくない。
 しかしサヨイは決然として、こう返す。
「大丈夫。私も一緒に行く。これは私の過去なんだから」
 サヨイは一〇年前、何者かに殺害されている。
 正確にはサヨイの素体になった女性が。
 サヨイの過去を取り戻したいという思いから僕は諮問探偵となった。
 その機会が思っていたより早く到来したのかもしれない。
 大尉さんの思惑に乗せられるのは癪だけど、今はそう思うことにした。



 大尉さんが部下に運転させてきたのは独逸車のポルシェ991だった。流線型の車体は赤く塗装されている。
 ポルシェ991は911の七代目に当たり、応化二三年にフランクフルトでの展示会で発表された最新型だ。車体には軽金属が大幅に導入され、剛性を高めつつ、軽量化が図られている。
 僕はサヨイと共に後部座席に乗り込み、その乗り味を味わった。
 後輪の安定性はもはやRRを意識させない。上質な乗り心地はホイールベースの延長によってピッチングが抑制されているためだろう。直進性や高速コーナーでの安定性は特筆に値する。こんないい車には滅多に乗ることができない。僕は座先に深く腰掛け、微かな振動を体全体で感じた。
 車窓から見える景色が高速で流れてゆく。
 僕もサヨイも外出の準備をすぐに整えていた。と言って僕の準備は大したことがなかった。諮問探偵としての僕の能力は、身一つで出かけたとしても大差ない。
 それはサヨイの方もさほど変わらず、外見上の変化と言えば黒い長手袋が加わったことくらい。今サヨイが着ている白いブラウスは袖の部分が透ける素材でできており、長手袋がほっそりと伸びた腕の印象を強めている。
 僕はサヨイを力付けようと手をぎゅっと握ってやった。サヨイの手は長手袋越しにも冷たくて、僕の熱を欲しているかのようだった。
 僕は助手席に座った大尉さんに尋ねた。
「大尉さん。一体どこへ向かっているんですか?」
 今、ポルシェ991は台東区へ入った。格式ある近代建築が目立つようになる。昭和一五年の東京オリンピックを境に東京は大きく街並みを変えたと言う。しかし台東区はレトロな雰囲気を色濃く残す。和と洋が入り混じり、応化と昭和が重なり合った景色は目を楽しませてくれる。
 心なしか空が広かった。雲が少なく、鮮やかな原色で染め上げたような青空は、どこまでも続いているように思われた。大尉さんが来なければ、サヨイを連れてどこかへ出かけたかった。
 そのサヨイは不安そうだった。うつむき加減で目線を膝に落としている。
 自分が殺された事件と関係があると言われたら動揺するのも当然かもしれない。夜の湖面に映る月のように瞳が揺れている。
 それともサヨイは僕のことを心配しているのだろうか。
 警視庁――と言うより内務省は、長く軍と対立関係にある。特に米英との歴史的な軍縮によって日本経済は好景気を迎え、大きな発展を遂げた。しかし、軍が予算の削減を苦々しく思っているのは周知の事実だ。憲兵将校である大尉さんに協力することは、そんな軍の走狗となったに等しいと言われるかもしれない。諮問探偵は警視庁の要請を受けて行動するのが前提なのだから。
 しかし大尉さんはこんなことを言い出す。
「勇希君。貴方は吉原へ行ったことがありますか?」
 予想外の単語。
 僕とサヨイは異口同音に素っ頓狂な声を出す。
「は?」
「は?」
 吉原だって? あそこは遊郭じゃないか。未成年の僕が行くはずがない。
 もしかして車が台東区に入ったのは吉原に向かうためなのか。四〇〇年に近い歴史を持つ遊郭は、女性の人権が声高に叫ばれるようになった応化の御世になっても、いまだ栄華を誇っている。花魁たちのブロマイドは華族の令嬢と並んで人気が高い。
 また花魁たちは高い教養を誇り、文芸などで活躍する者もいると言う。インターネットが普及したことによって花魁たちによる情報発信は華のように開き、流行に大きく影響を及ぼす。応化二六年という現代にあっても、花魁たちは輝き続ける。
 そんな吉原に大尉さんはなにか用があるのだろうか。