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不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器

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 だんだん心細くなっていって、サヨイが恋しくなってきた。
 サヨイは今どうしているだろう。
 僕の意識はそこで途絶えた。

■幕間その二

 勇希が刺された。
 ハッカさんから知らせを受けた私はハイヤーに飛び乗って病院へ向かった。
 赤信号で足止めを食う度に焦燥感がいや増す。
 私は両手を組んで神様に祈った。
「神様、どうか勇希を私から取り上げないでください……私ならもう一度死んでしまっても構いません……だからあの子を連れて行かないで……」
 指先が白くなるほど強く祈る。
 気の遠くなるほど長い時間、私は勇希を想い続けた。
 思い出されるのは一〇年間共に過ごした日々。



「それでは行ってきます、旦那様」
 と朝食の後片付けが終わった私は旦那様に挨拶を残して、勇希と共に出かけることにした。
 勇希の父親である旦那様は陸軍で軍医を務める偉い方。なんでもPTSDに苦しむ兵士の治療に携わっているのだとか。
 旦那様は少しも威張ったところがないし、私にとても良くしてくれる。多忙にもかかわらず、私が母親として専念できるように心を砕いてくれるのも嬉しい。今日だって、勇希に良い刺激を与えるために美術館に連れて行ってあげたい、という私の提案を受け入れてくれた。
 勇希は、水色の襟が付いたセーラー服に紺色のショートパンツ、白色のニーソックスという格好。この前、私が買っておいた服だ。日々、勇希は大きくなって、一〇歳になった今は身長一四〇センチと平均身長を少し超えている。
 一方、私の格好と言えば、半袖の黒いワンピースに白いブラウスを合わせ、レースのあしらわれた白い手袋をはめる、というもの。旦那様にはもっと娘らしい格好にしたら、と言われることがある。でも私は母親なのだから勇希が恥ずかしい思いをすることのないよう、きちんとした格好でいたい。
 七月下旬。
 見上げれば、どこまでも落ちてゆきそうな青空が広がっていた。
 私は勇希がはぐれないよう手を繋いで駅まで歩いた。もう一方の手にはお弁当を詰めたバスケットを下げる。
 勇希は目を輝かせながら尋ねてくる。
「ねえ、サヨイ。美術館って広いのかな?」
 もう何度目か分からない問い。
 その度に私は同じ言葉を返す。
「きっと広いわ。楽しみ?」
「うん!」
 電車の中でも勇希ははしゃいでいて、何度かたしなめなくてはいけなかった。でも勇希は聞き分けの良い子だから手のかかる方ではないと思う。きっと旦那様の前では意識して良い子でいるのだろう。
 私たちは車窓からの眺めに目をやりながら東京近郊にある美術館を目指した。
 がたんがたん、と列車は心地良い振動を与えてくれる。開け放たれた窓から心地良い風が吹き付けてきた。微かに夏草の香りがする。
 今年の夏は暑くなるだろうか。
 白い入道雲が夏の訪れを知らせていた。
 乗客たちのざわめきに混じって警笛の音が威勢よく響く。
 やがて駅に着いた私たちは歩いて美術館に向かった。田園地帯が物珍しいのか勇希は益々はしゃぎだした。私は勇希がどこかへ行ってしまわないように、きつく手を握り締める。
 目的地である美術館が見えてきた。
 美術館と言うより華族の別荘のような佇まいの建物だった。隣接する公園は緑に溢れている。お昼はここで食べてもいいかもしれない。
 美術館に入ると、天窓から眩しい光が天使の羽のように降り注いだ。
「勇希、走らないでね」
「はーい」
「返事は短くね」
「はい」
 私たちは他の来館者に混ざって展示物を見て回った。
 これまではしゃいでいた勇希だったが、展示物を見ているうちに大人しくなってしまった。
「勇希? どうしたの?」
「……なんだか体がフルフルする」
「トイレ?」
「違うと思う。なんだか絵を見ていると、ざわざわして落ち着かない」
 この子は感受性が鋭いのかもしれない。
 私は嬉しくなって勇希の頭を撫でた。
「それは感動していると言うの。今の気持ちを忘れないでね」
「そうなんだ。サヨイって物知りだね」
 話しながら館内を歩く。
 その一角で私の足は自然に止まった。
 雪国の風景が広がっていた。
 晴れた冬のある日、雪化粧を施した田園に清らかな川が流れ、穏やかな時間を切り取っている。
 そんな絵だった。
 もちろん私は今、美術館にいるのであって雪国に迷い込んだわけではない。しかし一瞬、そう錯覚してしまったほどの既視感を覚えていた。
 私は作者と題名を見た。
 作者は『金山平三』。
 題名は『大石田(おおいしだ)の最上川(もがみがわ)』。
 パンフレットによれば、金山平三は百年以上前に生まれた洋画家で、日本の四季の移ろいを描き続けたのだという。後半生には制作の拠点を東北に置き、好んで訪れて実地制作した場所の一つとして山形県大石田町が挙げられるとのこと。
 何故か、この景色が懐かしい。
 不意に郷愁を覚えた私は口元を抑えた。
 雨の下を走る車窓のように視野が潤む。
「サヨイ? 泣いてるの?」
 不思議そうに尋ねる勇希の言葉に私は自分が涙を流していることに気付いた。
 私は何故、泣いているのだろうか。
 熱を伴った雨は頬を伝い、床に零れ落ちる。
 勇希はなにも言わずに私の手を握ってくれた。
 絵の前で立ちすくみ、泣き続ける私を不審に思ったのか、職員が様子を尋ねてきた。私は職員の好意に甘え、静かな場所で落ち着くのを待った。やがて感動は波のように引いてゆき、私の心に波にさらわれた白い砂浜のような清新さが訪れた。
 ねえサヨイ、とずっと黙っていた勇希が控え目な口調で尋ねた。
「知ってる場所だったの?」
「そうかもしれない……」
「あの絵、欲しい?」
 こくり、と私はうなずいた。
 勇希が無邪気な笑みを見せる。
「じゃあ僕が大きくなったら買ってあげるよ!」
 勇希はいつの間にこんな気遣いができるようになったのだろうか。
 私は嬉しくて仕方がなかった。
 勇希は優しい子に育ってくれた。将来、どんな青年に成長するか楽しみでならない。その時には、母親である私の役割は終わっているかもしれないけど。
「ありがとう。楽しみにしてるわね」
 私は勇希の頭を撫でながら思った。
 生前のことをなに一つ覚えていない私にとって、あの絵は手がかりになるかもしれない。
 流した涙の源をたどれば、私は過去を取り戻せるだろうか?



 病院に駆け付けた私をハッカさんが出迎えた。
 私は病院の待合室でハッカさんの顔を見た瞬間、かっとなってなじっていた。
「ハッカさん! 貴方が付いていたのにどうしてこんなことになったんですか!」
 周囲の人々がぎょっとしたように私を見る。
 普段なら、こんな大きな声を出すことはない。
 しかし今は抑えが利かなかった。
「……」
 ハッカさんは視線を床に落とし、私の言葉に答えなかった。
 そんな態度が益々私の怒りを掻き立てる。
「ハッカさん! 私の目を見てください!」
 私に叱られたハッカさんは見たこともないような顔をしていた。
 まるで頼るべき寄る辺をなくした子供のような顔。
 言い過ぎた。
 後悔の念が頭を過る。
 勇希の様子を見に来た担当官さんが私をなだめた。