不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器
「国民あっての国家でしょう。国民を蔑ろにし、ひたすら軍拡に進んで行った歴史を忘れたんですか。その歴史を忘れてしまったら、再び米国との対立を招きます」
昭和一六年、日本と米国との関係は開戦する直前まで悪化していたと言われる。両国が交渉の場を設けた際、米国は実際に提示した文書以外に腹案を持っていた。その文書ではインドシナや中国からの撤退などを提案されており、もし交渉の場でそれが突き付けられていたら日本は開戦に踏み切らざるを得なかっただろう。
久留島大佐が二本目の煙草に火を点ける。
僕の言葉に堪えた様子もない。
「私たちの計画が完遂されれば米国など恐れるところではない。日本は必ず勝つ」
「一体その自信はどこから来るのでしょうね」
と大尉さんがやんわりと尋ねた。
「そんな傲慢さが国全体を覆うのではないかと、あの方はそれはそれは案じておられます。久留島大佐殿、貴方はあの方のお気持ちに背を向けると言うのですか?」
あの方とは一体誰のことなのだろう。
先ほど憲兵たちが怯んだことといい、かなり偉い立場の人のように思える。
もしかすると久留島大佐よりも。
「人形風情が知ったような口を叩くな」
久留島大佐の声には苦々しい響きが混じっていた。
大尉さんは言葉に乗せた刃を走らせる。
「久留島大佐殿。憲兵を独断で動かした貴方は軍法会議に召喚されることでしょう。今の話が果たして通用するのかどうか、試してみることですね」
久留島大佐は答えなかった。
僕と大尉さんは久留島邸をあとにした。
車に戻った僕らは次にどうするべきか話し合った。
「さて、勇希君。次はどうします? 警視庁に戻りますか?」
「いえ……犯人に会いに行きましょう。大尉さん、貴方なら犯人が誰なのか察しはついているんじゃないですか?」
「まあ、おおよそは」
「小照さんや詩音さん、あるいは僕。僕らのような子供たちの中に犯人がいます」
僕らは閑静な住宅街に向かった。
すでに時刻は深夜二時を過ぎていた。草木さえ眠る静かな夜にポルシェ991のエンジン音が響き渡る。
ある家の前でポルシェ991が止まった。
大尉さんが淀みなく説明する。
「牧島忠吾(まきしまちゅうご)。一四歳。今年になって中学校を退学しました。いじめが原因だと言われています。勇希君、貴方と同じ中学校だったんですよ」
「そうだったんですか?」
全く覚えがなかった。
いじめがあったという話は聞いていたが、その加害者のことも被害者のことも、僕は知らないでいた。
もしかすると僕にも牧島忠吾に対してできることがあったのかもしれない。
大尉さんが淡々と続ける。
「牧島忠吾は退学してのちは自宅に引き篭もるようになりましたが、最近になって出歩くようになったそうです。出かけるのは決まって深夜だとか」
「やはりそうですか」
僕と大尉さんは車から降り、立派な造りの玄関で呼び鈴を鳴らした。
家人がまだ起きていることは灯りが点いていることから察せられる。ほどなくしてエプロンをかけた婦人が玄関を開けた。こんな時間にエプロンをかけていることに違和感を覚える。夜食でも作っていたのだろうか。
疲れ果てた様子の女性だった。
僕は手帳を提示した。
「警視庁諮問探偵の菊池勇希と言います。牧島忠吾さんに会わせていただけますか?」
諮問探偵の存在は社会全体に知れ渡っているとは言い難い。
しかし規則で、このような場合には手帳を提示することになっていた。
「息子は誰とも会いません……!」
女性は玄関を締めようとする。
警戒しているのがありありと察せられた。
しかし大尉さんが割って入る。
「失礼します」
僕と大尉さんは靴を脱いで家に上がった。
家の中は雑然としていた。まるで家人の心を表すかのように。
そこで乱暴な声が上がった。
「ババア! 飯はまだかよ!」
二階からだ。
僕らは二階に急いだ。
牧島忠吾の部屋に押し入る。
その部屋には、先日ラジオ放送局に押し掛けた熱心過ぎるサヨイのファンである少年がいた。
彼が牧島忠吾なのだろう。
牧島忠吾は警備員が睨みを利かす正面玄関を誰何されることなく通過することができた。一方、連続殺人事件では犯人と思しき人物が全く目撃されていない。牧島忠吾は人に認識されないような特殊な力があるのではないか。
自分自身の存在感を消し去ってしまうような。
そして牧島忠吾は自室の中で消えかけていた。
情報端末に向かって一心になにかを打ち込んでいる姿はこの世に居場所をなくした彼が仮想世界にしがみ付くかのようだった。
牧島忠吾が僕たちに目を向ける。
寝不足なのか目が充血していた。
「邪魔者か。なにしに来た?」
「僕は君に話が聞きたくて来た。最近、連続殺人事件が起きていることは知っているだろう? その事件についてサヨイがラジオを通じて朗読している。君は自分の事件をサヨイに朗読されて満足したかい?」
牧島忠吾は熱に浮かされたように語り始める。
「なんでおまえは恵まれているんだ。僕の母親はあんなババアなのに、おまえはサヨイちゃんみたいな綺麗な母親がいる。おまえは少年探偵なんて言われてチヤホヤされているのに、僕はこんなところで情報端末を弄るくらいしかやることがない。僕にだってすごいことができるんだって、サヨイちゃんに知って欲しいと思うのがおかしなことか?」
牧島忠吾はずっと僕に嫉妬していたのかもしれない。
確かに僕は中学校で、諮問探偵であることに注目されていた。またサヨイという自動人形と一緒に暮らしていることも。サヨイの存在を知ったのは、授業参観に参加したところを見たという可能性がある。
しかし牧島忠吾の視線に僕は気付かなかった。
「だからと言って人を殺していいはずがない。君は自分の可能性が信じられないように他人の可能性も信じられないんだ。だから人を殺めることができる。でも、それは絶対に間違っている。君は面倒を見てもらっているお母さんがどんな気持ちでいるか考えたことがあるか?」
「くそ! おまえなんてあの時、列車にひかれれば良かったんだ!」
やはり僕をホームから突き飛ばしたのは牧島忠吾なのか。
大尉さんが牧島忠吾に歩み寄る。
「立ちなさい。貴方にはこれから相応しい罰を受けてもらいます」
牧島忠吾はなかなか立ち上がろうとしない。
その時だった。
衝撃と共に背中に熱いものが突き刺さった。
見れば、牧島忠吾の母親が僕の背中に包丁を突き立てていた。
真っ白な頭に浮かんだのは納得できないことに対する怒りだった。
僕は怒りに任せて彼女を振り払う。
傷口が広がったのか、血痕が派手に散った。
「忠吾、逃げて! 逃げるのよ!」
牧島忠吾の母親はなりふり構わないと言った様子で息子を促す。
しかし牧島忠吾はなおも立ち上がろうとしない。
大尉さんが牧島忠吾の母親を取り押さえる。
包丁が僕の背中に突き刺さったまま。
命がぼたぼたと零れてゆく。
「勇希君! 大丈夫ですか!」
大尉さんの声が遠くから聞こえてきた。
ぐらり、と体が傾く。
意識が彷徨う。
気が付けば僕は床に倒れていた。
寒い。
作品名:不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器 作家名:阿木直哉