不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器
■プロローグ
あれは一〇年前。母を亡くしたばかりの僕は、部屋にこもって日がな一日泣き続け、泣き疲れては眠るという日々を過ごしていた。
そんな僕を見兼ねたのだろう。
プレゼントだと言って父が大きな箱を家に運び込んだ。
「開けてごらん」
言われるがままに僕は箱の封を破る。
中には若い女性が入っていた。
白いワンピースを着た女性が膝を抱えて眠っている。長い黒髪はカラスの濡れ羽色といった風情で、艶やかさが匂い立つかのようだった。しかし長い睫毛は揺れることもなく、胸は呼吸によって上下することもない。
まるで時間というものから切り離されたかのようで、僕は見ているうちに奇妙な息苦しさを覚えた。
父は穏やかに僕に語り掛ける。
「これは自動人形というんだ。名前はサヨイと言ってね」
この時、僕は自動人形というものの本質的な部分を理解していなかった。ただ、子供ながらに自動人形について大人たちがささやき合うのが印象に残っていた。まさか自動人形の多くが不慮の死を遂げた若い女性の遺体を使っているなんて。
「今日からこれをお母さんだと思いなさい」
さあ、と父は僕を促した。
「キスをしたら目覚めるよ」
正体不明の感覚が僕を支配していた。
この世界には太陽から隠れるように咲く花もあるのだと本能的に感じ取った。その暗い花の蜜はどのような甘さを持つのか。幼かった僕は理解できないまま震えていた。
僕はまるで磁力に引っ張られるようにサヨイという自動人形にキスをした。彼女の額は死体のように冷たく、僕の熱を欲しているかのようだった。
うっすらとサヨイがまぶたを開く。
夜の湖面のような青さを湛えた瞳が僕を捉える。
初めて出会った物が最高の者となった瞬間だった。
■第一幕:姉妹ノ契リ
窓辺でさえずる小鳥たちの声に気付いた時、僕はベッドの上で緩やかに覚醒していた。
傍らにサヨイの姿はない。
ただ長い黒髪が何本か、そしてオレンジにも似た甘い芳香が白いシーツに残されていた。僕は寝巻のまま起き出して、洗面所で顔を洗い、食堂に向かった。
僕らが住むアパートメントは赤レンガの外壁が印象的な、まるで洋館のような佇まいを持つ。部屋の作りも洋風で統一されてある。年号が昭和から応化(おうか)に移っても、人々の生活はそう容易く変化するものではない。僕らのように洋風な暮らしを送るのは一部の富裕層だけだった。
幸いにして僕は仕事柄、一四歳にして充分な収入があった。
食欲を誘う朝げの匂いの漂う食堂でサヨイの後ろ姿を見つけた。白色のブラウスに水色のワンピースを合わせた着こなしが、どことなく家庭的な印象を醸し出す。サヨイはいつも肌の露出を避け、体の線を隠すような衣装を好む。
今はその上にエプロンをかけて朝食の準備をしていた。
包丁がまな板を叩く心地良い音が食堂に響く。
サヨイの背中に挨拶を送った。
「おはよう、サヨイ。遠慮なく起こしてくれていいんだよ。そうすれば一緒に作れるだろ」
くるり、とサヨイが振り返った。
エプロンに合わせて、背中の半ばまで伸ばされた長い黒髪が舞う。まるでカラスの濡れ羽色と言った風情があった。
ふふ、とサヨイは朗らかに微笑む。
二〇歳前後という外見にしては少女の匂いが残る笑みだった。
「おはよう、勇希(ゆうき)。よく眠っているようだったから起こさなかったの。昨日も遅くまでお仕事だったでしょう?」
柔らかくしなやかな声が返ってきた。
まるで水晶を共鳴させたような透明感のある響き。
「まあ、そうなんだけどね。着替えてくるよ」
僕は自室に戻って着替えることにした。今日は日曜日なので、わざわざ学ランは着ない。黄土色に染めた七分丈のズボンを穿き、白いワイシャツに緑のネクタイを締める。その上に灰色のカーディガンを羽織った。
季節は春の足音が聞こえ始めた頃。まだ少し寒い。
食堂に向かうと朝食の準備がすでにできていた。コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。
「朝もたくさん食べてね。きっと美味しいわよ。特にデザートが自信作なの」
とサヨイは笑顔で言う。
その笑顔を見ると、味見はしなかったのかと追及できない。
しかし、サヨイの料理は基本的には美味しいのだ。
基本的には、と但し書きをしなければならないが。
コーヒー、オートミール、トマトのソテー、そしてデザート。
今日も美味しそうだ。
ただし例外もある。
僕はデザートを凝視した。
そのデザートは、ヨーグルトにすりおろしたバナナなどを加えていた。そこにマスタード、蜂蜜、醤油をかけている形跡がある。
挑戦的なマスタード。
冒涜的な醤油。
一体どのような味が僕を襲うのか。
僕は平静を装って席に着いたが、内心の動揺をサヨイに悟られるのではないかと気が気でなかった。
サヨイには困った癖がある。謎めいた創作デザートを毎回作ってしまうのだ。決して不味いわけではない。だが、美味いわけでもなく、複雑怪奇な味わいに僕は毎回困ってしまう。同じ感想ばかり言うわけにはいかない。僕の語彙力が求められる場面だった。昔は普通の物を出してくれたのに。サヨイ、頼むから頑張らないで。
こういう時、僕は他の料理を食べながら創作デザートの感想を事前に考えておく。だが、マスタードに蜂蜜を混ぜ、さらには畳みかけるように醤油を加えるとは。サヨイの独創性は今朝も十全に発揮されている。平凡でいいから普通のものを作ってくれないかな。
サヨイは自分の食事を取らず、頬杖を突きながら僕の食べる様子を微笑ましそうに眺めている。そんなサヨイを見ていると、気の利かない感想を口にして、その笑顔を曇らせたくないと思う。
とうとうデザートの番が来た。
来てしまったというべきか。
僕は恐る恐るスプーンでデザートをすくう。奇妙な物体と化したデザートがスプーンの上で震えていた。
サヨイが笑顔で僕を見ている。
食べないわけにはいかない!
僕は目をつぶって一口食べた。
ヨーグルト、バナナ、マスタード、蜂蜜、そして醤油。それらが口の中で混ざり合い、複雑な味わいが広がってゆく。一つ一つの素材は悪くない。しかし、それらが組み合わさることによって、不協和音のような味になっていた。
いや、これは珍味だ。
僕は珍味なものを食べているんだ。これは決して不味いわけじゃない!
サヨイが期待に満ちた眼差しで尋ねてくる。
「勇希、美味しかった? 特にデザートは美味しいと思うの。醤油がきっとアクセントになってるんじゃない?」
サヨイは創作デザートの味見はしない。
それでも美味しいものができると思っているのだから困ってしまう。サヨイに悪気がないだけに繊細な対応が求められる。
ねえ勇希、とサヨイの質問が続く。
「感想、聞かせて」
「……これって珍味だよね。癖があって、病みつきになりそう」
「珍味って、どういうこと?」
「えっと……」
返答に困っていると、来客を告げる呼び鈴が鳴る。
助かった!
僕は飛び上がるように玄関へ走る。
あれは一〇年前。母を亡くしたばかりの僕は、部屋にこもって日がな一日泣き続け、泣き疲れては眠るという日々を過ごしていた。
そんな僕を見兼ねたのだろう。
プレゼントだと言って父が大きな箱を家に運び込んだ。
「開けてごらん」
言われるがままに僕は箱の封を破る。
中には若い女性が入っていた。
白いワンピースを着た女性が膝を抱えて眠っている。長い黒髪はカラスの濡れ羽色といった風情で、艶やかさが匂い立つかのようだった。しかし長い睫毛は揺れることもなく、胸は呼吸によって上下することもない。
まるで時間というものから切り離されたかのようで、僕は見ているうちに奇妙な息苦しさを覚えた。
父は穏やかに僕に語り掛ける。
「これは自動人形というんだ。名前はサヨイと言ってね」
この時、僕は自動人形というものの本質的な部分を理解していなかった。ただ、子供ながらに自動人形について大人たちがささやき合うのが印象に残っていた。まさか自動人形の多くが不慮の死を遂げた若い女性の遺体を使っているなんて。
「今日からこれをお母さんだと思いなさい」
さあ、と父は僕を促した。
「キスをしたら目覚めるよ」
正体不明の感覚が僕を支配していた。
この世界には太陽から隠れるように咲く花もあるのだと本能的に感じ取った。その暗い花の蜜はどのような甘さを持つのか。幼かった僕は理解できないまま震えていた。
僕はまるで磁力に引っ張られるようにサヨイという自動人形にキスをした。彼女の額は死体のように冷たく、僕の熱を欲しているかのようだった。
うっすらとサヨイがまぶたを開く。
夜の湖面のような青さを湛えた瞳が僕を捉える。
初めて出会った物が最高の者となった瞬間だった。
■第一幕:姉妹ノ契リ
窓辺でさえずる小鳥たちの声に気付いた時、僕はベッドの上で緩やかに覚醒していた。
傍らにサヨイの姿はない。
ただ長い黒髪が何本か、そしてオレンジにも似た甘い芳香が白いシーツに残されていた。僕は寝巻のまま起き出して、洗面所で顔を洗い、食堂に向かった。
僕らが住むアパートメントは赤レンガの外壁が印象的な、まるで洋館のような佇まいを持つ。部屋の作りも洋風で統一されてある。年号が昭和から応化(おうか)に移っても、人々の生活はそう容易く変化するものではない。僕らのように洋風な暮らしを送るのは一部の富裕層だけだった。
幸いにして僕は仕事柄、一四歳にして充分な収入があった。
食欲を誘う朝げの匂いの漂う食堂でサヨイの後ろ姿を見つけた。白色のブラウスに水色のワンピースを合わせた着こなしが、どことなく家庭的な印象を醸し出す。サヨイはいつも肌の露出を避け、体の線を隠すような衣装を好む。
今はその上にエプロンをかけて朝食の準備をしていた。
包丁がまな板を叩く心地良い音が食堂に響く。
サヨイの背中に挨拶を送った。
「おはよう、サヨイ。遠慮なく起こしてくれていいんだよ。そうすれば一緒に作れるだろ」
くるり、とサヨイが振り返った。
エプロンに合わせて、背中の半ばまで伸ばされた長い黒髪が舞う。まるでカラスの濡れ羽色と言った風情があった。
ふふ、とサヨイは朗らかに微笑む。
二〇歳前後という外見にしては少女の匂いが残る笑みだった。
「おはよう、勇希(ゆうき)。よく眠っているようだったから起こさなかったの。昨日も遅くまでお仕事だったでしょう?」
柔らかくしなやかな声が返ってきた。
まるで水晶を共鳴させたような透明感のある響き。
「まあ、そうなんだけどね。着替えてくるよ」
僕は自室に戻って着替えることにした。今日は日曜日なので、わざわざ学ランは着ない。黄土色に染めた七分丈のズボンを穿き、白いワイシャツに緑のネクタイを締める。その上に灰色のカーディガンを羽織った。
季節は春の足音が聞こえ始めた頃。まだ少し寒い。
食堂に向かうと朝食の準備がすでにできていた。コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。
「朝もたくさん食べてね。きっと美味しいわよ。特にデザートが自信作なの」
とサヨイは笑顔で言う。
その笑顔を見ると、味見はしなかったのかと追及できない。
しかし、サヨイの料理は基本的には美味しいのだ。
基本的には、と但し書きをしなければならないが。
コーヒー、オートミール、トマトのソテー、そしてデザート。
今日も美味しそうだ。
ただし例外もある。
僕はデザートを凝視した。
そのデザートは、ヨーグルトにすりおろしたバナナなどを加えていた。そこにマスタード、蜂蜜、醤油をかけている形跡がある。
挑戦的なマスタード。
冒涜的な醤油。
一体どのような味が僕を襲うのか。
僕は平静を装って席に着いたが、内心の動揺をサヨイに悟られるのではないかと気が気でなかった。
サヨイには困った癖がある。謎めいた創作デザートを毎回作ってしまうのだ。決して不味いわけではない。だが、美味いわけでもなく、複雑怪奇な味わいに僕は毎回困ってしまう。同じ感想ばかり言うわけにはいかない。僕の語彙力が求められる場面だった。昔は普通の物を出してくれたのに。サヨイ、頼むから頑張らないで。
こういう時、僕は他の料理を食べながら創作デザートの感想を事前に考えておく。だが、マスタードに蜂蜜を混ぜ、さらには畳みかけるように醤油を加えるとは。サヨイの独創性は今朝も十全に発揮されている。平凡でいいから普通のものを作ってくれないかな。
サヨイは自分の食事を取らず、頬杖を突きながら僕の食べる様子を微笑ましそうに眺めている。そんなサヨイを見ていると、気の利かない感想を口にして、その笑顔を曇らせたくないと思う。
とうとうデザートの番が来た。
来てしまったというべきか。
僕は恐る恐るスプーンでデザートをすくう。奇妙な物体と化したデザートがスプーンの上で震えていた。
サヨイが笑顔で僕を見ている。
食べないわけにはいかない!
僕は目をつぶって一口食べた。
ヨーグルト、バナナ、マスタード、蜂蜜、そして醤油。それらが口の中で混ざり合い、複雑な味わいが広がってゆく。一つ一つの素材は悪くない。しかし、それらが組み合わさることによって、不協和音のような味になっていた。
いや、これは珍味だ。
僕は珍味なものを食べているんだ。これは決して不味いわけじゃない!
サヨイが期待に満ちた眼差しで尋ねてくる。
「勇希、美味しかった? 特にデザートは美味しいと思うの。醤油がきっとアクセントになってるんじゃない?」
サヨイは創作デザートの味見はしない。
それでも美味しいものができると思っているのだから困ってしまう。サヨイに悪気がないだけに繊細な対応が求められる。
ねえ勇希、とサヨイの質問が続く。
「感想、聞かせて」
「……これって珍味だよね。癖があって、病みつきになりそう」
「珍味って、どういうこと?」
「えっと……」
返答に困っていると、来客を告げる呼び鈴が鳴る。
助かった!
僕は飛び上がるように玄関へ走る。
作品名:不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器 作家名:阿木直哉