不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器
ふらふらと夢遊病者めいた足取りだ。
自分の行き先が分かっているのかいないのか。
僕の乗った車がタイヤを滑らせるように発進した。
「どこに出かける気でしょうか?」
と僕は不安を訴えた。
しかし誰も反応を返さない。
やがて詩音さんは駅に向かったため、僕らは車を降り、二人一組に分かれて追った。
詩音さんに倣って電車に乗り込む。
彼女が向かったのは新宿御苑だった。
新宿御苑はもともと大名の下屋敷のあった敷地だったが、明治一二年に宮内省の管理するところとなり、現在は一般公開されている。
しかし夜間になると司直の目の届きにくくなる。女学生が一人で行くような場所ではない。
やはり詩音さんが犯人なのか。
霧雨は益々濃さを増し、ともすれば詩音さんを見失いそうになる。
僕らは気取られないように足を速めた。
新宿御苑に入ったところで灰緑色の軍人たちが立ち塞がった。
いずれも黒く塗装された騎兵銃を携えている。その騎兵銃は憲兵隊が独自に採用した形式で、300BLK弾という消音器との相性の良い弾薬を使う。300BLK弾の亜音速弾は消音器の効果によって、銃声がほぼ消されてしまう。
消音器、電灯、光学照準器などが取り付けられた騎兵銃が僕らを照準している。電灯が眩しくて憲兵たちがどんな表情をしているのか分からない。
憲兵たちが威圧的に言った。
「去れ。おまえたち警察が関与すべき問題ではない」
「嫌だ」
と、僕は一歩前へ踏み出した。
膝が震えていた。
正直に言えば怖い。
それでも前を向いて憲兵たちを睨む。
「詩音さんは本当に犯人なんですか?」
「……」
憲兵たちは答えない。
いつの間にか霧雨は本格的な雨になっていた。雨粒は激しく石畳を叩きつけ、睨み合う僕らを濡らす。
吐く息が白い。
冷たい雨に打たれながら僕は突破口を探った。
僕は銃なんて持っていないし、腕力だって大人には敵わない。
憲兵たちを突破するための言の葉を森の中で探す。
そんな時だった。
「きゃあああ!」
少女の悲鳴が雨音に混じって聞こえてきた。
憲兵たちが背後から聞こえてきた声に振り返る。
一瞬の隙。
気が付けば、僕は憲兵たちの間を駆け抜けて、森の奥に走った。照準を定めるための緑色の光線が僕の脇を通過する。
撃たれる!
その時、刑事の一人が叫んだ。
「行け、勇希!」
ここはまだ新宿御苑の外延部。叫べば一般人に耳にも届く。
おそらく憲兵たちは事件を秘密裏に処理するつもりだったのだろう。形振り構わない刑事たちの反応に戸惑う様子が背中越しに伝わってきた。
僕は尻に帆をかけて走った。
雨は益々勢いを増す。
僕はもう全身ずぶ濡れになった。雨の冷たさが体の芯まで伝わってくる。
どれくらい走っただろう。
森の奥で僕は久留島詩音と邂逅した。
外灯は遠く、光は乏しい。
希望さえ絶えたように。
久留島詩音さんの傍には女性が倒れており、黒い血が雨によって石畳の上を流れて行った。
焦点の合っていない目を濡らして詩音さんが僕を眺める。詩音さんは僕を見ているようで見ていない。あるいは、世界のどこにも彼女の焦点はあっていないのかもしれないとも思った。だとしたら、詩音さんは今、一体なにを想っているのだろう。
やはり彼女が犯人だったのか。
降り注ぐ雨粒は僕の頬を伝い、止めどなく石畳の上に落ちて行った。
空が泣いている。
「菊池さん、なにか言ってください」
やがて詩音さんの唇から呟きが漏れた。
僕はかろうじて尋ねた。
「詩音さんが殺したの?」
「菊池さんは分かってくれますよね? だって私たちは同じ兵器なんですから」
「兵器?」
訳が分からなくて僕はオウム返しに尋ねた。
兵器だって? 一体どういうことだ?
詩音さんは滔々と続ける。
「お父様が言っていました。しおんたちは、『不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器』なんだって」
不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器。
それはハーグ陸戦条約の一文だった。
しかし、その条約と詩音さんたちがどう関係しているのか全く分からない。いや、詩音さんの言葉を借りれば、僕も関係していることになる。
一体どういうことなのか。
その時、緑色の光点が複数、詩音さんの体に浮かんだ。
危ない!
僕はとっさに詩音さんに飛び付いた。
倒れ込んだと同時に銃弾が真上をかすめた。
銃声は全くしなかった。微かにボルトが作動する金属音が遠くから聞こえただけ。
「詩音さん、逃げるんだ」
僕は詩音さんを立たせた。
その間にも周囲からの威圧感は密度を増す。蛇が草むらを這うような音を立てて、憲兵たちが騎兵銃を構えて現れた。
半円に取り囲まれる。
僕らは木を背にして追い詰められた。
詩音さんが不安を訴えるように僕の手をぎゅっとつかむ。
この子を守らなければならない。
しかし、この窮地をいかにして脱すればいいのか、僕には皆目見当がつかなかった。
膝がまた震えている。
ここで僕たちは殺されてしまうのか。
そんな時、憲兵たちの背後で銃声が響いた。
一体、誰が?
見れば、大尉さんが天に向けて拳銃を撃ったのだった。
大尉さんはこれまで聞いたことのない鋭い声を憲兵たちに向ける。
「これは命令です。今すぐ作戦を中止し、ここから退去しなさい」
「しかし大尉殿と言えども、そのような権限は……」
憲兵たちが抵抗の意を示す。
例え大尉さんがどれほど強いのだとしても複数の憲兵を相手に勝てるはずがない。
一体どうするつもりなのか。
すると大尉さんは拳銃をホルスターに収めた。
「私を撃ちますか? 私を撃てば、あの方がどれほど悲しむか……」
大尉さんの言葉に憲兵たちは目に見えて怯む。
息をのむ気配が雨に混じって伝わってきた。
憲兵たちは騎兵銃を下ろし、闇夜に溶けるように去っていった。
最後に一言、毒づいて。
「いい気になるなよ、人形」
人形?
自由奔放に振舞う普段の大尉さんの様子からは、人形という言葉は最も遠い。しかし軍部においては人形と揶揄されるような立場の人なのだろうか。
憲兵たちが去ったあと、大尉さんはにっこり笑った。
「大丈夫ですか? どこも撃たれていませんか?」
僕たちは体をあちこち触った。
なんともないようだ。
助かった。
そう思うと力が抜けて、僕はその場にへたり込んでしまった。
我ながら情けない。
でも今は生きている感覚を味わいたかった。
◆
僕は刑事たちに詩音さんを預け、大尉さんと共に久留島家に向かった。
大尉さんの部下が運転するポルシェ991に乗って、夜の街を疾駆する。
雨に濡れた街はネオンが揺らぎ、この世ならざる場所と成り果てたかのよう。
後部座席に隣り合った僕と大尉さんは事件について語り合った。
「大尉さん。詩音さんは自分たちのことを『不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器』と言っていました。『不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器』とは散弾銃のような残酷な効果を持つ兵器のことです。それがどうして人間を指すのでしょう?」
そして、どうして僕まで含まれているのか。
大尉さんは淡々と語った。
「小照さんのことを覚えていますか?」
作品名:不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器 作家名:阿木直哉