リコーダーが吹けない(零的随想録1)
常識と進化・コミュニティ=コミュニケーション
エッセイとブログはやはり異なっていて、前者は思い出したことを書いて行くのに対し、後者は主としてその日にあったことに則り書いて行く。しかし、やはりというべきか、どうしても性質が似てくる。進化論というものでは、似たような生活をする生き物は、たとえ種の分類が大きく離れていようとも(たとえば魚類と哺乳類と無脊椎動物)は、また似てくるらしい。このことの名称は忘れてしまったが、結局書く人の意識によって違うものも似たものになる。人によってはショートショートと短編は、ただ長さによる分類と考えている人もいるが、明確に区別をしようと試みる人も多くいる。ただ、そのために、目くじらを立てて他人にも批判の矛先を向ける人がいる。
ここからが本編となる。何で人は自分たちのコミュニティでの常識を他人に押し付けようと思ってしまうのか。自分自身は押し付けてくる奴をうざったく思うのに、なぜ人には押し付けてしまうのか。
そもそも、常識なんてあるのだろうか。スパゲッティ本場イタリアに於いての正しいスパゲッティの食べ方は、フォーク一本で巻いて食べることであるが、日本でそれをやると「常識知らず」と見做される。人によっては「スプーンを使え」と怒る人もいるほどである(イタリアでスプーンを使うのはまだフォークになれない子供であり、成人がスプーンを使うのは笑われる)。またある宗教では必ずしなければ天国に行けないといわれることが、別の宗教ではすると天国に行けないといわれることもある。日本で三大天使は偉い天使と見做されているが、彼らが、実は最下層の一つ上にすぎない(天使の階層は9つにわかれているが、下から二つ目に大天使がある)ということを知っている人は多くいるだろうか。
結局、どのコミュニティでも正しいという常識はないのである。それは人の伝達の仕方にもかかわってくるだろう。
人は意図せずして説明を省くからだ。そうしてカリフォルニアロールやフリークとしての意味しか持たない「Otaku」という単語が出回る事になり(オタクの意味は、自分がはまっている対象に対して、語れる人のことを指す。自分にとっての世界観や、自分の考える良好な将来像を語ることが条件であり、ただ好きで集めたり愛でたりするのはマニアという言葉で呼ぶ。)、ホワイト・シャートがワイシャツに変化する(Yというアルファベット自体に意味はない)。
情報化社会になった今でも、その様子は変わらない。人は見たいものだけ見て、信じたいものだけ信じる。伊東計劃氏をはじめとした様々な文学者や心理学者が述べているではないか。
別にその情報が重要でないのならば間違いだらけでも仕方ないのかもしれない。こうして散文詩はエッセイに進化していく。
文学って突き詰めればみんなミステリーであるものな。
作品名:リコーダーが吹けない(零的随想録1) 作家名:フレンドボーイ42