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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「ですから、もう、私たちはこれで終わりにした方が良いのだと思うのです。頼嗣さま、今も私の心は頼嗣さまだけを想うておりまする。この先、あなたさま以外に愛せる方にめぐり逢えるとは思えませぬ。されど、私たちの想いが他の誰かを不幸にすると知りながら、この想いを貫くことはできません」
 千草の言い分は筋が通っており、康経の訃報を聞いた際、父頼経が彼に向けた言葉とまったく同じであった。自分たちが恋を成就させることで多くの犠牲を払わねばならないというのなら、この恋は辛くても諦めるしかない。
 父も千草も口を揃えて同じことを言う。頼嗣自身、それが最も理に適った取るべき道だとは判っていた。それでもなお、千草を求める心を抑えられない。所詮、父の言うように、我が身は他人を顧みられぬ色恋に狂った愚かな男なのだろうか。
 頼嗣は唇をきつく噛みしめ、千草に背を向けた。わずか数歩の距離を歩くどころか、最初の一歩を踏み出すことが今の自分には苦痛でしかない。けれど、愛しい女にここまで言わせて、男としてこれ以上、何をどうすることもできなかった。
 頼嗣は一歩一歩、ありったけの意思の力をかき集めて脚を動かした。傍から見れば、それは随分と滑稽なぎごちない歩き方に見えただろう。それほどに千草から離れるのには不動の意思の力を必要としたのだ。
 河越館の門まで歩いてきて、頼嗣は漸く立ち止まった。よくぞここまで歩いてこられたと我ながら自分を褒めてやりたい。ひと息ついたその時、脚音が背後から追いかけてきて、彼はその場に釘付けになった。
 早くまた次の一歩を踏み出さねばと思うのに、両脚が地面に縫い止められたかのように動かない。
 もしや―。彼は無意識に振り向いた。彼の瞳に映ったのは、こちらに向かって駆けてくる娘の姿であった。
 はんなりとした桜色の小袖には季節にふさわしい桜花の花びらが舞っている。細帯は趣味の良い萌葱色。美形一族として知られる河越氏一族の中でも、千草の可憐な美貌は際立っているとの評判だ。
 次の瞬間、頼嗣は両腕を伸ばして、駆けてきた娘を全身で抱き止めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 千草は頼嗣の腕の中で泣きじゃくった。
「あんなことを言ったのに、私、どうしても頼嗣さまのことが忘れられなくて。この恋を失って、どうやって生きていったら良いのか判らなくて」
 頼嗣は静かに言った。
「もう、良い。もう、泣かなくて良い、千草」
 幼子に言い聞かせるように言い、彼は千草の漆黒の髪を撫でた。
 刹那、一陣の風が二人の側を吹き抜けた。折しも河越館の門前には大きな桜が植わっている。樹齢も定かではない巨樹は早咲きの桜で、既に満開の様相を見せていた。たっぷりとした薄紅色の花が枝につき、重たげに垂れている。
 愛馬月影が桜の樹に繋がれ、のんびりと庭の草を食んでいる。春光に包まれた堂々とした白馬と満開の桜は一幅の絵のように美しい。
 目白が二匹、花たちが重なり合ってできた花叢(はなむら)の中からひょっこりと姿を見せた。翡翠色の美しく可愛らしい鳥の姿に、頼嗣は思わず眼を細めた。
 あの鳥はつがいであろうか。そんなことを考えていると、千草が呟いた。
「古人(いにしえびと)が満開の桜を雪のようにも霞のようにも見えると詠ったのが判るような気が致します」
 互いにこれが今生の名残になるかというこの時、のんびりと花や鳥を愛でている場合ではないだろうに、やはり千草と自分はいささか風変わりな、そして似た者同士なのかもしれないなと思えてくる。
 今の頼嗣には、むしろそのことが嬉しかった。
 やはり、自分にはこの女しかない。その想いを新たにし、頼嗣は眼前の少女を見つめる。
 また強い風が二人の間を吹き抜けた。頭上の桜の梢が妖しくざわめき、薄紅色の花びらが狂ったように一斉に舞い流される。見つめ合う二人を雪のように舞い散る花片が包み込んだ。
 頼嗣は月影を繋いでいた縄を解き、愛馬に跨った。その勢いで千草を抱き上げる。まるで攫うように彼は千草を腕に抱いたまま、月影を駆けさせた。
 いきなりふわりと身体が浮いて、千草が悲鳴を上げる。
「頼嗣さま?」
 怯えたように見上げる千草に、頼嗣は笑った。
「怖いか?」
「少しだけ」
 正直に応えた千草にまた笑い、更に問う。
「怖いのは急に馬に乗せられたからか、それとも私の方か?」
 千草は少し考えて、?馬の方です?と応えた。またしても正直な応えに頼嗣は笑った。
 二人を乗せた白馬は風のように走った。いつしか千草は甘えるように頼嗣の広い胸に身体を預けていた。千草は手にしていた菫の花束を抱えたままだ。すべてを委ね信頼しきっているかのように身を寄せている女を腕に抱き、頼嗣は改めて愛しさが増す。
 この女を守りたいという衝動が強く湧き上がった。
 
 春雪

 どこからともなく海鳴りが響いてくる。この音に包まれていると、いつしか身も心も安らいでいく。それも道理で、頼嗣も千草も鎌倉で生まれ、この海鳴りを子守歌代わりにして育った。
 ここに来れば、嫌なことも忘れられる。振り返れば、歓びも哀しみも我が生涯は海とともにあった。千草は改めて思うのだった。また、この場所は乳兄弟でもあり幼なじみでもある頼嗣との想い出の場所でもあった。
 幼き日、頼嗣と共に無邪気に遊び戯れたあの日々が今ではひどく遠いものに思え、だからこそ無性に愛おしい。そっと傍らの頼嗣を窺えば、何を考えているのか、海を眺めている。しかし、恐らくは我が身と似たようなことを考えているのであろうことは察せられた。
 不思議なもので、赤の他人でありながら、頼嗣の考えていることや気持ちは手に取るように判る。二人がそれだけたくさんの時間を共有してきたことの証なのかもしれない。頼嗣もまた千草の気持ちなど端からお見通しだろう。
 二人は今、並んで由比ヶ浜のお気に入りの場所に座っていた。それこそ子どものように両膝を立てて身体に引き寄せている。頼嗣はその上に顎を乗せて、ぼんやりと海を見ている。千草はそっと頼嗣に身体をもたせかけた。
 自分たちは数え切れないほど、この場所で一緒に刻を過ごした。幼い時分は何も先のことは考えず、ただ、二人だけの愉しい時間は永遠にこの先も続いてゆくのだろうと信じて疑わなかった。けれど、千草は昔に還りたいとは思わない。
 過去を振り返るのはけして悪いことではない。時には立ち止まり、我が身の歩いてきた道、積み重ねてきたものを眺めるのも悪くはない。しかし、徒に過去を懐かしんでばかりいても、何も始まらない。
 だから、過去に還ろうとは思わず、前だけを見つめていたかった。前に進むには強さが必要だ。何ものにもけして屈しはしないという強い意思の力が。
 だが、その強さとは何なのか。自分たちがこの恋を貫こうとしたことで、兄が死んだ。他の誰かを犠牲にしてまで、この恋を貫き通すことが強さだとは思わない。それは単なる身勝手だ。かといって、この男を諦めることもなんて、できるはずがない。
 ならば、この想いを貫き通すには、どうすれば良いの?
 千草は頼嗣の肩に頭を乗せたまま、蒼い海を眺めながら考えた。
 と、頼嗣の声が突如として耳を打った。
「千草は憶えているか?」
「何でございましょう?」