華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
康経の父康英はすべてを悟っていたのだ。この件には裏で北条得宗家が拘わっていると知っていて、頼嗣にこの件には拘わるなと忠告した。
頼経はしばらく沈思していたが、やがて口を開いた。
「頼嗣、千草との結婚は諦めよ」
「父上! それとこれとは話が違いまする」
頼嗣が言うのに、頼経は難しい表情で首を振った。
「何が違うものか。そなたも判っておろうが、康経が何ゆえ、無残な殺され方をしたのか。これだけの犠牲を支払うたのだ」
「それは」
言いかけて頼嗣は続けるべき言葉を持たなかった。だが、ここで引いては一生、惚れた女と添うことはできないと声高に続けた。
「私は千草を諦めたりはできない。千草でなければ駄目なのです」
「ならば、百歩譲ろう、千草を迎えても良いが、それは執権の妹と正式な祝言を挙げてからだ」
「それは、つまり」
頼嗣は言いかけて、烈しくかぶりを振った。
「いやだ、絶対に承伏できませぬ」
頼嗣は涙眼で父を睨んだ。
「父上はいつも執権の言いなりではありませんか」
「愚か者めが。またしても、康経のように無駄死にする者が出ても良いのか、下手をすれば、そなたも康経の二の舞ぞ。北条は警告してきたのだ。逆らえば、口先だけでなく真に刃を振り降ろすぞとな。己れが色恋のために、大切な前途ある家臣をむざと犠牲にするなど、将軍としてあるまじきふるまい、それこそ笑止千万。そなたがそのような世迷い言をいつまでも申して眼を覚まさぬつもりなら、執権がそなたを将軍位から引きずり下ろすまでもない、この父がそなたを解任してやろう」
頼経の眼もまた濡れていた。
「康英は私がまだ未熟な若者であった頃から、いつも側に控えて、よく仕えてきてくれた。その忠義なる家臣の大切な息子を私は死に追いやってしまったのだ。同じ子を持つ父として、康英の心痛は察するに余りある。何と詫びて良いか、合わせる貌もないほどだ。そこまでの犠牲を払いながら、この上、千草に執着するとは未練がすぎる」
「父上ッ」
縋るように見上げても、父の厳しい表情は微動だにせず、ただ強い意思が表れているだけだ。
頼経が静かな声音で告げた。
「そんなに欲しいのなら、側室として迎えれば良い」
「そのようなことはできません。父上は惚れたおなごを側妾にしておいて、平気なのですか? 例えば母上を側室になどできますか!」
「黙りなさい、母を愚弄することは許さぬぞ」
頼嗣の眼から、ひとすじの涙が糸を引いて流れた。
「お願いです、私は千草を心から大切に思っているのです」
だが、父は何も言わない。頼嗣は立ち上がった。
「もう良いッ。父上がどうしても認めて下さらぬというなら、私は執権と差し違えてでも、千草を妻に迎えます」
「慮外者、口にして良いことと悪いことがある。十三にもなって、そのようなことが判らぬか」
頼経の叱責も聞かず、頼嗣はそのまま部屋を飛び出した。
頼経は深い吐息をつき、うつむけた額に手のひらを当てた。頼嗣も馬鹿ではない。幾ら千草に惚れているからとて、今し方、口にしたように実際に経時に刃を向けたりまではすまい。
が、思いつめたあの年頃の少年は時として大人が思いも及ばないようなことをしでかすものだ。それが市井に生きる名もない少年なら許されることも、天下の将軍では許されないこともある。
頼嗣が思い余らねば良いが―、頼経はすぐに頼嗣の側近を呼び、信頼できる者にしばらくは若い将軍の身辺を警護し、変わったことがあればすぐに報告するようにと命じた。
十日余りが過ぎた。河越康経の葬儀も終わり、表面上は何事もなく日はなめらかに流れてゆくように思えた。康経の葬儀には将軍自らも臨席し、隠居した大御所頼経からは破格の香典が下賜された。それはやはり、河越氏が現将軍の乳人一族であり、将軍家二代に渡って絶大な信頼を得ている証と誰の眼にも映じた。
康経の葬儀にはむろん、執権北条経時の姿も見えた。頼嗣は経時の胸倉を掴み上げ、その澄まし返った顔を思いきり殴りつけてやりたい衝動を堪えるのに苦労した。
その朝、頼嗣は厩舎から愛馬?月影?を引き出し、ひらりと馬上の人となった。そのまま慌てふためく馬廻り役には頓着することもなく、鞭をふるい愛馬を駆けさせてゆく。月影は昔物語に登場するような見事な白馬である。堂々とした体?と優しい瞳、優雅な姿は名馬の産地といわれる遠国からわざわざ将軍家に献上されたものだ。
頼嗣が目指したのは河越康英の屋敷であった。千草はその時、庭に出て花を摘んでいる最中であった。紫色の可憐な花たちが群れ咲いている一角に彼の想い人はいた。その姿はさながら菫に囲まれているように見え、頼嗣には鎌倉に春を告げる女神のようにも思えた。
彼は一瞬、遠目に千草の姿を認め、春の陽差しを浴びて輝く彼女を眼を細めて見つめた。
近づいたところで声をかける。
「千草」
「頼嗣さま」
千草が慌てて頭を下げた。頼嗣は彼女の側に立ち、一面に咲き乱れる菫を眺めた。
「見事なものだ。何故であろう、菫の花は一つ一つは儚くて頼りなげなのに、こうして群れ固まって咲くと力強い美しさを感じる」
「それが力というものですわ」
千草の言葉に、頼嗣は彼女を見た。物問いたげなまなざしから、何故か千草は視線を逸らした。
「民の一人一人は弱いものかもしれませぬが、その力もたくさんの民が集まれば、国をも動かし得る大きな力となりまょう。頼嗣さま、民のためにも良き国をお作り下さいませ」
頼嗣は千草に一歩近づいた。
「千草、何ゆえ、そなたは私の顔を見ぬのだ?」
千草の視線は依然として紫の可憐な花たちに向けられたままだ。頼嗣はこちらを見ようとはしない千草に焦れ、千草の両肩に手を置いた。
「こちらを見よ、千草」
その言葉に、千草がようやっと振り向く。頼嗣はハッとした。黒曜石のような双眸には大粒の涙が浮かんでいた。
「もう金輪際、お逢いは致しませぬ。頼嗣さま、いえ、御所さま」
頼嗣は息を呑んだ。
「何故だ、どうして、そんな哀しいことを申すのだっ」
激情に駆られて叫んだ彼を、千草は涙に濡れた瞳で見上げた。
「兄が死んだのは私のせいなのです」
千草の肩を掴んだ頼嗣の手がわずかに震えた。
千草は泣きながら言った。
「私が分不相応な夢を抱いてしまったから、私が御仏からの罰を受ける代わりに、兄が亡くなってしまったのです」
頼嗣の声が戦慄いた。
「それは私たちのことを申しているのか?」
千草はかすかに頷いた。
「北条得宗家を敵に回すことがどれほど空恐ろしく途方もなきことか。私はまだ理解できてはおりませんでした。私の認識の甘さが、大切な兄を死に追いやってしまった」
頼嗣の手が千草から離れた。
「康英は私たちのことを知っていたのだな」
千草が小さく頷いた。
「父にだけは頼嗣さまとのことを打ち明けていたのです」
頼嗣の耳奥でまたも康英の言葉が甦った。乳兄弟の死を聞きつけ駆けつけた彼に、康英は確かに言ったのだ。
この件には一切拘わるな、殺されたのが倅でむしろ良かったのだ、と。あの言葉は、息子康経が将軍の身代わりになって北条に殺されたのだと康英が知っていることを示していた。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ