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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 千草は頼嗣から身を離し、彼を見つめる。
 頼嗣が笑顔になった。
「あの日のことだ」
 千草も微笑む。
「あの日と申しましても、たくさんありましたゆえ、どの?あの日?か判りませぬ」
「―だな、違いない」
 頼嗣がつれられたように笑う。
「確か私とそなたが八歳か九歳くらいではなかったか。河越館の庭で、康経と矢比べをした。あの時、既に康経は十五、六の立派な大人だった。私は康経に負けまいと必死で矢を的に当てようとしたものだ。結局、十回の勝負の中、私が勝てたのはただの二度きりだったが」
「ああ、思い出しました。あのときは正英兄上も父上もいらっしゃり、賑やかでした。父上と来たら、実の息子よりも頼嗣さまの方を本気で応援してばかり。頼嗣さまが勝ったときなど、躍り上がらんばかりに歓んでおりました」
 頼嗣の脳裡に、あの瞬間の光景が鮮やかに浮かび上がる。確かに康英の熱烈な声援は実の息子康経よりは専ら頼嗣に向けられた。
―御所さまっ、お見事。
―でかしましたぞ!
 考えれば、康英はずっと我が子たちよりも主君である頼嗣を実の子同様に大切に慈しんできた。それは単に養い君と乳人、守り役であるという主従関係よりは、ずっと身近な真摯な愛情であったように思われた。
 その康英から、自分は大切な息子を奪ってしまったのだ―。改めて康英に申し訳ないと思うとともに、我が身のしでかした罪の深さを憶えずにはいられない。頼嗣の面に翳が差したのを千草はすかさず見て取った。
 わざと明るい声音で言ったのは、その場の雰囲気を変えたかったからだ。
「私、今だから有り体に申し上げますが、実は随分とあのときは迷ったのですよ」
 頼嗣が首を傾げる。
「それは、どういう意味だ?」
「好きな方か兄か、どちらの味方をすれば良いものか、応援すれば良いものやら迷ったのです」
 千草の顔に悪戯っぽい表情が浮かんでいる。頼嗣は思わず吹き出していた。
「それで、結局は、どちらを応援したのだ?」
 頼嗣が興味津々といった体で訊くのに、千草は笑った。
「さあ、どちらでしょうか」
「何だ、勿体ぶらずに教えろ」
「ふふ、知りたいですか?」
 千草が笑顔で問うと、頼嗣は忌々しそうに言う。
「ええい、いちいち癪に障る女だな。減るものではなし、さっさと教えろッ」
「内緒です」
 千草のしてやったりの笑顔に頼嗣がむくれた。
「何だと。さんざん人の心を弄んでおいて、その言い草はないだろう」
 頼嗣が叫び、千草が?おお、怖い?と身を竦める。昔からの他愛ないやりとりがそこにあった。誰にも邪魔されない二人だけの時間であり空間だ。
 ふと頼嗣の視線が千草の顔の前で吸い寄せられるように止まった。静かな潮騒だけが響く中、二人はしばし見つめ合った。まなざしが絡み合う。
 頼嗣の端正な顔が近づいてくるのを、千草は眼を開いて見つめていた。唇と唇が触れるその寸前、頼嗣がふっと顔を離した。
 そのときの気持ちをどのように形容したら良いのか、千草には判らなかった。
 落胆?
 それとも、肩すかしに遇った?
 では、私は何をあの先に期待していたというのだろう。その応えなら判った。私は頼嗣さまがあの瞬間、私に接吻(キス)するのではと思ったのだ。
 私は一体、いつからそんな恥ずかしいことを願う淫らな娘になってしまったのだろう。
 千草が頬を上気させている間に、頼嗣は千草の抱えていた菫の花束から一輪を抜き取った。
「これを口づけの代わりに」
 そのひと言で、頼嗣もまた自分と同じことを考えていたのだと知り、千草は更に頬を赤らめた。
 頼嗣は手にした菫をそっと千草の艶やかな髪に挿した。
 私が考えていた、はしたないことを頼嗣さまに見抜かれていた?
 そう考えただけで、恥ずかしさに消えてしまいたいほどである。だが、当の頼嗣はいつもとまるで変わらず、穏やかな笑みを浮かべている。
 何だか自分だけが一人で動揺しているみたいで、恥ずかしい。
 千草がますます消え入りたい想いにうつむいていると、ふいに頬を冷たいものが掠めた。
 見上げれば、白いものがちらちらと鈍色の天(そら)から舞い降りている。一瞬、河越館を出る間際に見た舞い散る花びらが眼に浮かんだ。
 最初は火照った頬にその冷たさが心地良いとすら思っていたのだけれど、どうやら、そう悠長なことばかりも言っておられなくなった。雪が本格的な降りになってきたのである。
 頼嗣と千草は顔を見合わせて、慌てて近くの小屋に逃げ込んだ。
 頼嗣が囲炉裏に火を熾すと、狭い小屋内がパッと明るくなった。ここはいつでも変わらない。千草は懐かしいもう一つの場所を久しぶりに眺め回し、微笑んだ。
「ここは変わらぬな」
 頼嗣も同じことを考えていたようである。彼もまた懐かしげにしげしげと小屋を眺めていた。
「いかほど、ここに来ておらぬ?」
「さあ、一年か、もう少しか」
 千草が応えると、頼嗣はにっこりと笑った。
「よくぞ、そのように長い間、ここに来なかったものだ」
 この小屋は無人だ。誰が住んでいるというわけでもなく、持ち主がいるというわけでもい。元々は若い漁師夫婦が暮らしていたというが、その漁師も若い時分にここを棄て都へと上った。が、十数年前くらいから、連れ合いを亡くした老いた漁師がたまに故郷へ帰ってくるようになったという。里帰りした際には、ここに泊まっていたらしいが、その漁師も都で亡くなったという話だ。
 頼嗣と楓がここを見つけたのは、既にその持ち主だった漁師が亡くなった後、八歳くらいのときのことだ。それらの経緯を二人は町の露天商から訊きだした。粗末ななりをした二人を民の子と信じ込んだ人の良い商人は事のあらかたを教えてくれ、売り物の蒸し饅頭までただでくれた。
 二人は貰った蒸し饅頭をこの小屋で頬張りながら、かつて、この小屋で暮らしていたという漁師のことをあれあこれ想像して話し合ったものだ。
 以来、二人は由比ヶ浜に来ると、よくこの小屋にも寄るようになった。それは二人の第二の秘密の場所になった。頼嗣はそれを悪戯めかして?隠れ家?と呼んだ。そのままにしておけば流れる風雪に掘っ立て小屋は傷んでしまったことだろうが、頼嗣は御所から道具を運んできて、器用に立て付けの悪い戸や外れそうになった窓を直した。
―どこから、そのようなものを持ってくるのですか?
 訊ねてみても、頼嗣は笑うだけだった。
 屋根に登って雨漏りを塞いだことさえあり、流石にそのときは千草も見ていて気が気ではなかった。将軍というやんごとなき御身でありながら、万が一、屋根から落ちたらどうするのか。
 心配のあまり、屋根から降りてきた頼嗣に涙眼で訴えると、頼嗣は頭をかいた。
―済まぬ、そなたにそこまで心配をかけるつもりはなかった。だが、案ずるな。私は高いところに登るのは慣れておる。母上がおん自ら木登りの極意を伝授して下されたからな。
 得意げに言った頼嗣に対して、千草は思わず間の抜けた反応をしてしまった。
―へ?
 今、頼嗣さまは何とおっしゃった? 確か母上さまが木登り極意を伝授下されたとか何とか。それとも我が身の聞き違いかと思っていたところ、頼嗣が生母大宮どのから本当に手取り足取り木登りの方法を教えられたと知り、愕いた。