華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
まるで地の底から這うような不気味な声だ。些細なことでは動じない頼経も膚が粟立つ禍々しさであった。
その時、頼嗣は書見をしていた。昨日、父の許を訪れた際、父の机に載っていた?貞観政要?を借り受けてきたのだ。
父に帰り際、言われた。
―少しはこのようなものも読んで、見聞を広めておくが良かろう。好いたおなごと逢瀬を愉しむも若き中の特権だが、将軍として学ばねばならぬことも多いはずだぞ。
父の言葉はもっともで、頼嗣は返す言葉もなく書物を受け取った。
丁度今、その?貞観政要?を読んでいるところだったのだが―、なかなかに難しい。まだろくに読み進めてもおらぬのに、早くも眠気がしてきたところに乳人の菊乃がまろぶように飛んできた。
「御所さま」
「どうした?」
いつもは沈着な菊乃が常になく動揺している。それだけで何か大変なことが起こったのだと察せられた。
「康経が―」
菊乃は次男の名を告げ、その場に声を上げて泣き崩れた。
頼嗣は慌てて菊乃の側近く寄り、その身体を助け起こした。
「菊乃、康経が何とした? 気をしっかり持て」
「康経が亡くなったと、たった今、屋敷から知らせが」
そのひと言に、頼嗣は凍り付いた。
すぐにその脚で河越館に向かった。もちろん、菊乃も輿に乗せて運ぶ。頼嗣だけは先に馬を駆けさせて河越館に着いた。
康経の骸は広間に安置されていた。将軍自らが来たと聞き、広間に静かなざわめきがひろがった。そこには亡骸を取り囲む河越一族と代々、河越氏に仕える郎党が控えていた。
「何ということだ」
頼嗣は骸に近づいた。菊乃は頼嗣にとっては生母に等しい存在でもある。将軍世嗣として頼嗣は早く生母から離され乳母の手に養育を委ねられた。
その菊乃には四人の子がいて、頼嗣よりは年上の長男正英、次男康経、それから千種、三男の元正と続いた。頼嗣より年上の正英や康経は彼にとって兄のような存在であったのだ。
幼いときは河越館の庭でを相撲(すまい)を取ったり、木刀の手合わせをしたりと、彼らとの想い出は尽きない。
大御所となった父が将軍時代から信頼の厚い康英が菊乃の良人である。その康英は一挙に何歳も歳を取ったかのように憔悴しきった顔で惚(ほう)けたように宙を見つめていた。
その傍らに千草が座っている。可哀想に瞳に涙を一杯に溜めて、泣くのを懸命に堪えているようであった。
今すぐに側に行って抱きしめてやりたい。しかし、将軍たる身がそのようなことをするわけにはゆかないのだ。
「何故、康英がこのようなことになったのだ!」
頼嗣は吠えるように叫んだ。
千草の傍らに端座していた長男の正英が口惜しげに言った。
「闇夜でふいに背後から襲われたらしいのです」
頼嗣は訳が判らぬといった顔で正英を見た。正英が唇を噛む。
「昨夜、康経は屋敷に戻ってきませんでした。若い男ゆえ、どこぞに通う良い女でもできたのかと我ら、呑気に構えておりましたが、どうやら、そのときには既に闇討ちにあっていたようで―。すごぶる手練れらしく、背後から恐らくは羽交い締めにされて、ひと突き。傷は深く心ノ臓まで達しておりました。即死であったとの医師の診立てにござる」
最後まで言い終わらない中に、菊乃の悲痛な叫び声が聞こえた。菊乃は気が狂ったように骸に縋り付き、号泣した。
「康経、康経ッ」
挙げ句に衝撃が強すぎて、昏倒し広間は大騒ぎとなった。
「早く奥方さまを別の間にお連れせよ、医師を呼ぶのだ」
家臣たちが騒ぎ立てる中、失神した菊乃は別室に運ばれていった。頼嗣は気遣わしげに千草を見た。千草は気丈にも泣くまいと堪えている。そのか細い肩が小刻みに震えていた。
「許さぬ、康経を無残にも闇討ちにした卑劣な輩、きっと捕まえて罪を償わせてやる」
頼嗣が唇を戦慄かせた。
康経は二十歳になったばかりだった。長子正英とは二つ違いで、父に似て政や学問が苦手だが武芸の腕は立つ兄とは異なり、書物に親しみ、学問を良くした。生きていれば、これからの幕府を支える有能な人材になり得ただろう。
この康経だけが元服の際は前将軍頼経を烏帽子親とし、片諱を与えられている。
「何故、康経が狙われたのか―」
頼嗣は呟いた。康経は穏やかな男で、誰かに恨みを買うといった可能性は考えられなかった。
その時、康英が立ち上がった。
「御所さま。わざわざ倅のためにお越し下さり、ありがとうござりまする」
頼嗣は首を振った。
「何を水くさいことを申すのだ。菊乃とそなたは言うならば私にとっては第二の父母と同じ、康経もまた兄のごときものであった。誰が一体、このような酷い所業をしたのか。康英、心当たりはないか?」
「それは―、いえ」
剛直なこの男にしてはいつになく歯切れの悪い物言いで押し黙った。
頼嗣は優しく促した。
「どのようなことでも良い。心当たりがあれば、申してくれ。何が手がかりになるか判らぬ」
と、康英は真顔で首を振った。
「御所さま、どうか、この件はお忘れ下さりませ。敵の手にかかったのが愚息で不幸の幸いでござった。御所さまはおん大切なるお方。どうか、この件には今後、ゆめ、お関わりになきよう、この康英、伏してお願い申し上げまする」
「それは、どういう意味だ?」
問い返しても、康英の顔は硬かった。板東武者を絵に描いたようだと評判の康英がひとたび言わぬと決めたなら、たとえ将軍とはいえ、頼嗣のような子どもが何を言おうと口を開かせることはできない。
頼嗣は己れの無力感に打ちひしがれて河越館を後にした。せめて千草に声だけでもかけたかったけれど、大勢の人眼がある前では近づくこともできなかった。
御所に帰ったときは、疲れ切っていた。泥のような疲労感が押し寄せてきていたが、帰るなり、父頼経が訪ねてきていると告げられ、急ぎ居室に向かった。
「父上」
上座に座った父に一礼し、自分もやや下手に座る。
「河越康経が俄に亡くなったと聞いた」
頼嗣は憂い顔で頷いた。
「はい。酷い死に様でした。昨夜、闇討ちに遇ったらしいとのことにて」
「闇討ち―」
頼経が息を呑んだ。
「やはり、こうなったか」
父はがっくりとうなだれ、何かに耐えるように長い間、眼を瞑っていた。
「これが北条得宗家に逆らうことへの代償なのか」
頼嗣は父の言葉に眼を剥いた。
「何ですって? 北条得宗家に逆らうとは」
頼経がゆっくりと首を振った。
「私が浅慮であった。昨日、執権に逢うて、あやつの妹との婚姻を正式に断ってきたのよ。その折、釘を刺された。後悔なさいますなと」
「何と、それでは、康経を殺したのは執権なのですか!」
その刹那、今し方、河越館で康英が呟いた科白がまさまざと耳奥でこだました。
―敵の手にかかったのが愚息で不幸の幸いでござった。御所さまはおん大切なるお方。どうか、この件には今後、ゆめ、お関わりになきよう、この康英、伏してお願い申し上げまする。
頼嗣はその科白をそのまま頼経に伝えた。頼経は絶句した。
「申し訳なきことをした。後先考えずに動いたせいで、康英の大切な息子をみすみす殺すようなことをしてしもうた。あれに何と申して詫びて良いか判らぬ」
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ