華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
「頼嗣どのの人生は頼嗣どののもの。私も母にございます。殿と同じ気持ちももちろん、ございます。さりながら、生涯、北条の影に怯えて暮らすか、ここで自らの運命は自分で選び取るのだとはっきりと意思表示するか。すべてが悪い方向に向かうとは限りますまい。頼嗣どのが北条の底知れぬ怖ろしさや企みを承知で敢えて闘う道を選ぶというのなら、私は息子の勇気と闘志を讃え応援してやりたいと存じます」
その生き生きとした瞳を見た時、頼経の脳裡にふと鮮やかに甦った情景があった。
あれは十三年前にも遡る。頼嗣誕生の砌、あろうことか、瑶子は由比ヶ浜の漁師小屋で出産したのであった。二人ともに散策に来て、驟雨に遭ってしまった。御所に帰ろうにも帰られず、瑶子を浜辺の無人の小屋に運び込んだ。
初産の若い妻とかつて最初の妻を難産で亡くした頼経。二人だけでの出産など到底無理だと頼経は思ったものだけれど、瑶子は言い切った。
―それでも、生まなければなりません。御所さま、できなくても、しなくてはいけないのです。この子の誕生を多くの御家人が待ちわびております。ですから、何としてでも無事に生んで見せます。
強い意思を秘めた瞳で頼経に訴えかけてきた妻をあの時、とても強い女だと思った。
何ものにも負けず、立ち向かっていくその姿は、最初の妻千種とはまた別の強さであった。運命に逆らうことなく受け容れて生きた千種の静かな強さと、運命さえも自らの力で変えて切り開いてゆこうとする瑶子の逞しさ。
瑶子はあのときと少しも変わっていない。彼自身、妻から強さとはどのようなものか教えられた場面も少なくはなかった。思えば、頼嗣はその強き女の血を引く息子なのだ。
頼経はもう何も言うことはなかった。
御所の庭は静けさの底に沈んでいる。女人の眉を思わせる繊細な眉月が清かな光を地上に投げかけ、庭に群れ咲く花をひっそりとほの白く照らし出していた。
まだ冷たさの残る夜気にほんのりと混じっているこの甘い香りは水仙か、梅の花か。
頼経にふいに抱き上げられ、瑶子が愕いて小さな悲鳴を上げた。
「殿、びっくり致します」
「この甘い香りは、そなたの身体から香ってくるのかな?」
「また、ご冗談ばかり仰せになって」
「では、寝所でゆるりと試してみよう」
瑶子がクスクスと忍び笑いを洩らす。その漣(さざなみ)にも似た笑い声にいかにも女らしい艶が混じった。頼経も美しい双眸に男の欲望を閃かせ妻を熱い視線で見つめ返す。美しい男だけに、男の色香を放つその美貌は凄艶なほどだ。
彼は妻を抱いたまま大股で寝所まで戻った。
対決〜将軍と執権〜
翌日の朝、頼経は久方ぶりに御所に渡った。むろん用があるのは女たちの棲まう奥向きではなく、政務が行われる表である。もっとも、現在、十三歳の将軍はまだ正室がいない。そのため、奥向きに棲まう女主人もおらず、奥はひっそりとしたものだ。
その表の広間で、頼経はある人物と対峙していた。上座に座る頼経に相手はにこやかな笑みを向けている。
「これは大殿、ご用がありますれば、わざわざお見えにならずとも、私の方からお伺い致しましたのに」
執権北条経時、この時、二十八歳。線の細い優男風でやさしげな印象を与えるが、なかなかどうして腹の内を見せない策謀家である。北条得宗家を背負って立つ当主でもあった。とはいえ、経時が元服時は頼経自身が烏帽子親となり元服し、頼経自身の片諱(かたいみな)を与えて?経時?と名乗ったという間柄でもあった。
更に頼嗣が元服の際は経時が烏帽子親となっている。将軍家父子と執権経時の関係は緊密であるように見えながら、実に複雑微妙なのだ。
「何か私が御所を訪ねてはならぬような物言いだな。用済みの前将軍がここに来ては迷惑か?」
温厚な頼経のいつになく挑発めいた物言いに、経時は細い眼をみはった。だが、動揺が面に出たのはほんの瞬時のこと、すぐに大海に投げ込まれた小石のごとく凪いだ見せかけの笑顔の下に消えてゆく。
「何を仰せになりましょうや、前(さきの)大納言さまは引退なさったとはいえ、幕府にとって大切なるお方というのは、これ変わりなく」
いつもながらの勿体ぶった物言いが癇に障る男だ。呼びかけるときの?前大納言?の?前?をわざと強調しているように聞こえるのは、流石に勘繰り過ぎというものだろうか。
「いや、忙しい執権の手間を煩わせるのも気の毒というものゆえな」
頼経も素知らぬ顔で返す。
「ところで、将軍のことなのだが」
経時が頷いた。
「はっ、御所さまの御事で何ぞおありでしょうか?」
この狸めが、判っておる癖に。頼経は内心悪態をつきたいのを堪え、努めて穏やかな声を出した。息子のためにもできるだけ波風を立てないで事を収めたい。
「そなたの妹との婚姻のことだが、あれは」
言いかけたところで、経時がすかさず機先を制した。
「檜皮(ひわ)も殊の外、愉しみにしております。下世話な物言いでご無礼仕りますが、御所さまは男ぶりも上々にて、都のやんごとなき公達にもそうそうは見られぬほどの優雅な貴公子。そのようなお方に妻に迎えて頂けるとは妹も果報者にござります」
これは搦め手から責めても無駄だ。頼経は咄嗟に判断し、正攻法でいくしかないと決めた。
「将軍には惚れた女がおると申しておる。されば、執権の妹との婚儀は辞退したいとな」
経時の顔は面白いほど変化がない。まるで面を被ったままのように薄い笑みを貼り付けたまま固まっている。
ややあって、経時が怖ろしいほど優しげな声音で言った。
「それは大殿もご承知の上でのお返事にございますか?」
頼経は頷いた。
「むろんのこと。さればこそ、私がこの縁談はなかったことにして欲しいと正式に断りに参った」
「この婚姻を断ることが何を意味するか、お判りですかな?」
頼経は眉をつり上げた。
「ホウ、断れば、そなたは何とする」
「いちいち申し上げねばお判りにならぬとは、三つの童でも少し考えれば判りそうなものを」
吐き捨てるように言う経時は最早、それまでの穏やかな仮面を付けてはいない。氷のような冷ややかなまなざしが頼経を射貫くように見据えた。
「そなたは私を三つの童にも劣る愚か者だと申すか」
頼経も流石に、怒りに声が震えた。
と、経時は何を思ったか、フと笑った。
「戯れ言にございます。どうか其れがしの口が過ぎましたれば、ご容赦のほどを」
頼経は握りしめた拳が白くなるほど力を入れた。
「何がおかしいのだ。私は真剣に話しておるのだぞ」
「私もむろん、真剣にございます。それゆえ、こうして申し上げておるのでございます。この縁組みを破談にすることは北条得宗家を真っ向から敵に回すも同然と」
「たいしたものだ。北条はいつから将軍家を脅迫するようになった?」
頼経は立ち上がった。もう話すことはないとばかりに背を向けた彼に、凍てついた声が追い縋ってくる。
「畏れ多くも頼朝公の御世から、将軍家あっての北条、北条あっての将軍家、その絡繰(からく)りは今もなお続いております。どちらかがその関係を絶とうとした時、均衡は崩れるのです。そして、北条との繋がりを断ち切ろうとした将軍は必ず滅びる。どうか今日の日のことを後悔なさいますな」
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ