華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
「公卿どのは実朝公暗殺を勧めたのが泰時の配下とも知らず、実朝公とともに泰時をも殺すつもりであったのよ」
「手の者からそれを聞いて知っていたからこそ、泰時どのは危険を察知して事前に難を逃れたということなのですか」
気丈な瑶子の声がかすかに震えていた。
頼経は溜息をついた。
「今も北条の怖ろしさは変わってはおらぬ。泰時にとりて実朝公は実の姉の子、つまりは甥だった。公暁どのとて、血の繋がった甥の子。血縁的にも濃い間柄なのだ。しかも、北条にとって源氏はなくてはならぬ幕府の大黒柱であったはず。にも拘わらず、源氏の嫡流である実朝公を殺した、何故なのか、私はよくその理由を考えてみた」
瑶子が膝を膝行(いざ)り進め、近づいてきた。
「何故なのでしょうか?」
頼経は低声(こごえ)で応えた。
「最初は泰時自らが将軍になるつもりなのかとも思うた。だが、違う。頼朝公の御世はともかく、二代頼家公のときから、将軍職は北条の操り人形になり果てた。だからこそ、頼家公もまた実の祖父北条時政に殺された。その折は頼家公の母である尼御台政子さまも時政に同調したそうだ。まだ実朝公がおられると安易に考えておられたのであろう。頼家公が廃され殺されたのは母方の実家北条を蔑ろにし、ご自分の正室であり乳母一族の比企氏ばかりを重用したからだといわれている。要するに、北条の意のままにならぬ将軍はいずれ消される運命にあるのだ」
瑶子が小声で訊ねた。
「では、実朝公も北条に逆らわれたのですか?」
頼経は深刻な表情で頷いた。
「実朝公は万事に京風、公家風を好まれる方であったそうな。ゆえに、朝廷に近づき、幕府嫌いの後鳥羽院にも取り入り、次々と高い官位を得て、ついには右大臣にまで昇られた。そなたも?位討ち?は聞いたことがあろう」
瑶子が息を呑んだ。
「では、上皇さまが実朝公を次々に昇進おさせになったのも位討ちだと」
頼経は無言で瑶子を見た。沈黙が何よりの肯定であった。
「あまりに分に合わぬ身分はその人にとって、かえって仇になり、その者は身を滅ぼすという。昔(いにしえ)から伝わる呪いをかける法の一つだ」
「そんな―。上皇さまがそんな怖ろしい」
「後鳥羽院の幕府嫌いは有名であったからな。現に、後に承久の乱を起こされ、倒幕の兵を挙げられた。その頃には私は既に鎌倉にいたのだ。ま、北条泰時には、実朝公のそのような京好みが気に入らなかったのだろう。源氏は武家の棟梁、武士が公家のようになってしまったのでは本末転倒だからな」
実朝は万事、京に憧れていた。和歌をよくし蹴鞠をたしなみ、生活のすべてに公卿の風習を取り入れた。生粋の武士である泰時がそれを快く受け止めていなかったことは容易に想像できる。
こんな将軍を頂いていては、御家人まで公家の風習に染まり、武士の気風が失われると危惧も抱いただろう。脆弱な気風は御家人の気勢をそぎ、幕府を内側から腐らせる怖れもあった。
「瑶子、私は今もって不思議なのだ」
「何がでございますか?」
「尼御台さまのことよ」
「初代さまの御台所でいらせられた方にございますね」
ああ、と、頼経は首肯する。
「尼御台さまは話に聞くような怖ろしき野心を持った女性には見えなかった。少なくとも、私には終始、優しき祖母のような存在であった。乳母よりも私は尼御台さまに育てられたようなものだ。私はあの小柄な老婦人の中に、我が子の死すらも容認できるような烈しさ、非情があったとは今でも信じられぬ」
しかし、現実として、政子は一人の娘の人生をいとも容易く激変させた。千種という娘を亡き孫の身代わり姫に仕立て、まんまと偽物の?源鞠子?を作り出したのだ。頼経と結婚した時、千種は既に二十八歳になっていた。
背中に大きなアザがあるため、生涯嫁げぬ宿命だと日陰でひっそりと生きてきたような娘だった。仮にあのまま身代わりに仕立てられることなく河越恒正の娘として生きていたなら、女としての幸せは得られずとも、子を産むこともなく寿命をまっとうできたかもしれないのだ。
それが頼経の妻となったばかりに、彼に愛されて懐妊し難産の末に儚くなった。
我が子さえ平然と手にかけられる非情な政子にとっては、一御家人の娘の運命を変えることなど、小さな虫をひねり殺すようなものだったのか。すべては政子が?源氏の血?を後世に残すために取った道ではあったが、政子がそうまでして残したかったものに、いかほどの価値があったのか。
今となっては、政子の心中を知るすべなどない。ましてや、瑶子は先妻が偽物姫であったことを知らないのだ。真実はただ、頼経が墓場にゆくまで心に秘めておくのみ。
頼経は改めて妻を見た。
「そなたも北条の冷酷さはよく判ったろう。それでもなお、頼嗣を河越の娘と娶せても良いというか?」
瑶子はしばらく口をつぐんでいた。しばらく静寂が閨の中を支配した。頼経はその間、応えを急かすでもなく、寝所の片隅を飾る手活けの花を眺めていた。彼の居室にあったのは頼嗣が推察したとおり、瑶子の手になるものだった。
今、彼の部屋にあるのとそっくりそのままの花が妻の寝所を飾っている。雪のような真白な水仙、眼にも眩しい深紅の山茶花、小粒の実が赤瑪瑙を彷彿とさせる南天、形が独特なネコヤナギ。
いかにも瑶子らしい、ゆったりとした活け方はあたかも花そのものが自然界で息づいているときの姿のままのようにも見える。生命を摘み取るのでなく、新たな場所で再生させ、ひときわ美しく花開かせる―そんな活け方だ。彼の居室と違うのは花器だけで、ここは竹を精緻に編み込んだ花入れに入っている。
やがて、どこから迷い込んできたのか、蝶がひらひらと近づいてきた。燭台の焔に近づいてゆく。それはまるで美しきもの、輝けるものに惹かれて、うかと近づき、焔に体ごと絡め取られて灼き尽くされてしまう蝶の運命の峻烈さを暗示しているかのようである。
美しいけれど、苛烈な一生。頼経が魅入られたかのように蝶に見とれていると、瑶子はつと手を伸ばし蝶を捕まえた。寝所の中とて、頼経も瑶子も着流しの夜着姿だ。袂から覗いた妻の二の腕の白さが眩しかった。
「―!」
瑶子が手にした蝶は蒼かった。珍しい、あまり見たことはないものだ。透き通った蒼い羽根には繊細な模様が刻み込まれている。瑶子は蝶をそっと指先で掴んだまま立ち上がり、寝所を出た。何をするのかと後を追えば、居間を通り抜け縁廊に立つ。
彼女はふいに蝶から手を放した。蒼い蝶は月明かりに蒼い羽根を煌めかせながら羽ばたき、見る間に夜陰に紛れて見えなくなった。
「寝所の窓でも少し空いていたのでございましょう。侍女たちにもう少し気を付けるように申しておかねば」
瑶子は朗らかに言い、蝶が消えた方をいつまでも見つめていた。少しくして彼女は頼経に言うともなしに言った。
「殿、私も北条の怖ろしさがそこまでだとは迂闊にも存じませんでした。さりながら」
瑶子はここで言葉を句切り、今度は振り向き、頼経を真っすぐに見つめた。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ