華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
頼経は、やわらかな笑みを口許に刷いたまま、息子を見つめた。
「私は最初の妻を失って長らく、闇の中にいた。そなたの母が私を底なしの暗闇から救い出してくれたのだよ。瑶子こそが深い闇に塗り込められていた私の人生を照らしてくれたひと筋の光だった」
頼嗣もまた微笑んだ。
「それはよろしうございました。父上、私もそのような女人にめぐり逢いとうございます」
たとえ言葉にはせずとも、頼嗣の人生を照らすその光こそが千草なのだと、父には判っているはずだ。かつて母が父にとっての光であったように。
頼嗣は一礼すると、その場を辞した。
息子が去っていった後、頼経は深い息を吐き出した。その整った面には拭いがたい翳りが落ちている。
彼の心は今、あらゆる感情がせめぎ合っていた。正室である大宮どのとの間には、頼嗣を頭(かしら)に四人の子に恵まれた。頼嗣の次に生まれた次男千菊丸は五歳でさる寺に入れた。その二年後、七歳で剃髪し、今は仏道三昧の日々を送っているはずだ。
千菊丸の出家にも北条得宗家の強い意向が働いていた。将軍家世継ぎ争いの因となる次男は早くから出家させるべしと迫られてのことだ。
その千菊丸と年子で生まれた長女の禎(よし)姫は八歳、一番下の祐姫はまだ二歳になったばかりである。祐姫は頼経が将軍職を退いてから生まれた。
二度目の妻との間に紡いだ穏やかな愛情と優しい日々。歳月を経てもなお、色褪せぬ最初の妻千種への恋情。息子に語ったことは嘘ではない。瑶子とめぐり逢ったからこそ、彼は再び誰かを愛し、大切な人と共に生きていく歓びを得られた。
それでもまだ、千草のことを思うと、こんなにも心が狂おしく騒ぐ。そこまで愛したひとは紛うことなく河越氏の女(むすめ)であった。
四代将軍頼経の最初の妻は竹御所と尊称されていた。本名は源鞠子。二代将軍頼家の息女であり、初代頼朝の孫に当たる源氏嫡流の姫だ。しかし、幼名を紫(ゆかり)姫といっていた本物の姫は頼経との結婚を目前に病死した。そのため、急遽、時の執権北条泰時と頼朝の妻であった尼御台政子の策謀により、河越恒正の娘千種がその替え玉に仕立て上げられた。
頼経がめぐり逢い、烈しく愛したその女性こそが?竹御所?である。
突如として与えられた理不尽な運命を拒むこともできず、さりとて自棄になることもなく、最期の瞬間まで?源鞠子?としての人生を生ききった千種の生き方は見事ですらあった。その強さ、潔さ、優しさゆえに、頼経は余計に鞠子に惹かれた。
―やはり、宿命のなせる業なのか。それとも、血が血を呼ぶのか。
父と同じく、息子もまた河越氏の娘を愛するようになるとは! 頼嗣の乳母菊乃は亡き彼の妻鞠子(実は千種)の異母妹に当たる。そして、頼嗣が愛した千草は菊乃の娘であり、千種には姪であった。
その菊乃の娘にかつての最愛の女と同じ名を与えたのは他ならぬ頼経自身なのだ。せめて河越氏で新しく生まれ、これから育ちゆく姫?千草?には幸多かれと願いを込めた。
我が身と千種、自分たちの奇しき縁は途切れず、子たちの代に受け継がれたのかと愕然とするしかない。
頼経はその後もしばらく物想いに一人、耽っていた。
その夜。頼経は寝所で妻に昼間の息子とのやりとりをかついまんで話した。
頼経の妻瑶子は藤原久能の末娘だ。源氏とも北条とも関わりない彼女が将軍御台所に選ばれたのは、第一には速やかに子を産めるだけの健やかな身体を持っていること、多産系の家系の娘であること、また久能が朝廷方にあっては幕府寄りの公卿であったことが決め手となった。
頼経より三歳下の瑶子も今年で三十一歳になった。二年前には末子を生んだばかりとて、まだまだ成熟した女の色香を持っている。とはいえ、元々、歳よりは幼く見える容貌をしていたため、今でも彼が出逢ったときとさほど変わらない。ただ頼経に愛され、四人の子を産んだ女、母としての自信と余裕が瑶子にゆったりとした威厳のようなものを与えていた。
さて、妻がこの話にどのような反応を見せるか? 頼経は正直、見当がつきかねていたが、やはり、我が身と同様、頼嗣の身を守るためには北条経時の妹との婚姻は避けられぬものだと―妻もそのように考えているはずだと、どこかで思っていた。
が、妻は意外にも事もなげに言った。
「良いではありませんか。あの子はあなたさまに似て、一度こうと決めたら梃子でも動かぬ男にございます。河越康英の娘ならば、相手としても不足はありますまい、菊乃の育てた娘ゆえ、しっかりとして、よく気の付く娘にございます」
瑶子自身、千草とは度々対面し、娘のように可愛がっている。その人となりもよく判っていることもあり、瑶子は頼嗣と千草の結婚には乗り気の様子を見せた。
「うむ、そうか」
頼経が言葉を濁すと、瑶子は眼を見開いた。
「まあ、殿はあまり乗り気でいらっしゃらないようでございますね? 私は良い話だと思うのですが、何がお心にかかるのでしょう」
二人の仲を認めてやってはと進言するのに、頼経は深い息を吐いた。
「そなた、真に心からそのように考えてか?」
「と、申しますと?」
頼経はゆると首を振った。
「聡明なるそなたのことだ。執権の狙いはとうに見抜いておるであろうに」
「執権どのの狙いと頼嗣どのの結婚がどうして関係あるのでしょう?」
頼経は苦渋に満ちた表情で妻を見た。
「どうでも私に皆まで言わせる気か。執権は早くも次の将軍を立てるための布石を打とうしているのだ。頼嗣があやつの妹との婚姻を拒絶すれば、執権は頼嗣に何をしでかすか判らぬぞ」
「それは殿の考え過ぎというものでは?」
頼経は苦い薬を無理に飲まされたような眼で妻を見た。
「そなたは北条の怖ろしさを知らぬのよ。まだ私が鎌倉に来る前の話ゆえ、私も聞きづてにはすぎないが、確かな者からの話だ。三代実朝公が亡くなられたのは何故か、存じておるか?」
「あれは畏れ多くも二代頼家公の若君公暁さまが叔父である実朝公を弑(しい)し奉ったと聞き及び降りますが」
妻の言葉に、頼経はゆっくりと首を振った。
「さにあらず、実朝公は北条に殺されたのだ。公の記録では確かに、そなたの申すとおり、公暁どのが実朝公を鶴岡八幡宮で殺害と記されている。さりながら、その陰で公暁どのを唆したは北条泰時だという」
瑶子が声を潜めた。
「では、公暁さまの乳母一族である三浦氏が公暁さまを唆して新しい将軍に擁立しようとしたというのは偽りなのですか?」
「養い君が将軍となれば、乳母一族も幕府の中枢で権力を握れる。三浦氏も恐らく栄華の夢を見たことは事実であろう。三浦が公暁どのを後押ししするその裏で、北条泰時の手の者が公暁どのに巧みに近づき、実朝公殺害を勧めたというのが真相らしい」
「何と怖ろしい」
瑶子もこれは初耳だったようで、その顔は傍目にも判るほど蒼褪めていた。
「鶴丘八幡で行われたは実朝公の右大臣拝賀の儀であった。その際、泰時は実朝公と共に儀式に出席するはずであったものを、何故か直前に体調不良を訴えて出なかった。それが何ゆえか、そなたには判るか?」
瑶子から言葉はない。頼経は低い声で続けた。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ