華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
「そなたが執権の妹との結婚を渋っているところからして、意中の娘がおるのかとは思っていたが―。そなた、どこぞに言い交わした娘でもおるのか?」
ガバと頼嗣が顔を上げた。今度は父を真正面から見つめる。
「乳母子の河越氏の娘を妻にしとうございます」
頼経は静かな声音で問うた。
「河越の娘といえども、康英には娘が二人いるはずだが、乳母子といえば、正室の娘か?」
「はい、千草を妻に迎えたいのです」
「―」
頼経から声はなかった。
「父上、私は河越の千草を―」
同じことを言おうとしていた息子を父の言葉が遮った。
「何故、千草を?」
「私と千草は幼いときから片時も離れず、共に育ちました。私以上に私を理解してくれておる者と心得ます」
「されば、執権の妹との婚姻はいかがする?」
父の声は平坦で、感情は一切感じられない。頼嗣はきっぱりと断じた。
「私は生涯にただ一人と決めた女以外を側に置くつもりはございません。執権どのの妹御との縁談はなかったことにして頂きたいと存じます」
「つまり、千草を正室にする、御台所に迎えるというつもりなのだな」
もう一度、念を押すように言われ、頼嗣は深く頷いた。
「はい。そのつもりにございます」
「執権がそれで、あっさりと引き下がると思うてか?」
「それは」
頼嗣も言葉に窮する。頼経は静謐そのものの声で続けた。
「頼嗣よ、経時が私を退けて、年端も行かぬそなたを新しき将軍としたのは、己が思うままに政を動かしたかったからだ。幼いそなたならば、御しやすしと判っているからだ。かつては私自身も同じ理由で将軍に据えられた。北条の狙いの行き着くところは、そなたも判っておろうな」
「―」
「そなたが言えぬなら、私がはきと言おう。傀儡の将軍として祭り上げたそなたももう十三、いつまでも子どもではない。経時はまた私のときと同じことを繰り返すつもりなのだ。己れの妹を将軍たるそなたに娶せて、生まれた息子を次の将軍に立てる。もちろん、西も東も判らぬ幼い中に、そなたを退けてのう。ただ幼いだけより、北条得宗家の血を色濃く引いておる将軍であれば尚更好都合というもの。経時はそのような怖ろしき野心を抱いておる。あやつの妹との縁談を拒むということは即ち、経時の謀(はかりごと)を真っ向から叩きつぶすということになる。それだけの覚悟がそなたにはできているか?」
頼経は立ち上がった。
そのまま部屋を横切り、縁廊に佇む。腕組みをしたまま庭に茫漠とした視線を投げた。
「私が八年前、経時から退職を迫られて、あっさりとその座を投げ出したのも実のところ、我が身が可愛かったからよ。あの時、私が退職を拒んでいれば、私は間違いなく北条に消された。頼嗣、酷なことを申すようだが、私もそなたも同じようなものだ。我らは源家の一族でもないし、ましてや北条とも何のゆかりもない。利用できる間はとことん利用し尽くされるが、ひと度無用となれば、北条は我らを捨て駒としてあっさりと切り捨てる。所詮、形だけの将軍とはいつでも取り替えができるもの、巨大な幕府という歯車を動かすほんの一部にすぎないのだ。恐らく、経時の妹との婚姻を断れば、そなたは無用と判断される」
その先を父は敢えて口にはしなかったけれど、続く言葉が?そなたも消される?以外の何ものでもないことは頼嗣にも判った。
「父上、私は」
言いかけた頼嗣を頼経は手で制した。
「誰しも子は可愛い。私も例外ではない。そなたには何としてでも生き存えて貰いたい。千草を愛しいと思う男としての気持ちは理解できるが、子の安泰を願う父として、河越の娘との結婚を認めるわけにはゆかぬ。それが父の応えだ」
頼嗣は父の静まり返った水面のような顔を見つめた。これ以上、もう何を聞く気も話す気もないと判っていた。彼は深い無力感と喪失感に包まれ、立ち上がった。
その時、ふと思い出して、父に声をかけた。
「父上、町の露天商、小間物屋をご存じにございますか?」
頼経が眼を見開いた。
「はて、町の小間物屋とな、ついぞ心当たりはないが」
物問いたげな眼を向けられ、頼嗣は続けた。
「昨日、町の大路で行き会いました。私と千草を見て、十八年も前に私たちに会ったことがあるなどと申しますゆえ、最初は私も気が触れておるのかと思いましたが、どうやら、そうでもないうようで。私と千草が十八年前に見かけた男女二人連れにあまりによく似ているので、その二人連れにゆかりの者ではないかと思うと申しておりました」
「おお」
感情を露わにせぬ頼経が珍しく興奮した面持ちで膝を打った。
「その者は喜知次と名乗りはせなんだか?」
「残念ながら、名は聞いておりませぬ。されど、私が十八年前に遭遇した二人連れの中の男の方に、更には千草が女の方にとてもよく似ているのだと」
頼経の瞳が束の間、揺れた。
「その者は間違いなく喜知次と申す者であろう」
頼嗣はまた思い出して続けた。
「そう申せば、その商人、父上によく似た男に十八年前、助けられたとも申しておりましたな」
頼経がすかさず言った。
「思えば喜知次とも不思議なえにしであった。喜知次が質の悪い掏摸に遭うて難儀していたところ、私が財布を取り返してやったのだ」
「では、あの者の申していた私によく似た若い男というのは、真に父上だったのですね」
頼嗣は愕きも露わに言った。父の述懐とあの男の体験談はまったく一致していた。頼経が深く頷く。
「ああ、間違いない。そうか、喜知次も達者でやっておるのだな」
どこか遠い瞳で語る父に、頼嗣は問うた。
「しかし、父上、十八年前にご一緒だった女人というのは母上なのですか?」
頼経が軽く眼を瞑った。
「その頃、私はまだ十六であった。そなたの母とは出逢うてはおらぬ」
頼嗣は己れの失言に狼狽えた。
「申し訳ございません。余計なことを申しました」
父とて男だ、母とめぐり逢う前に他の女と拘わりを持ったことはあるはずだ。それを息子がいちいち取り立てて暴くなど言語道断である。が、父は淡々と言った。
「その時、一緒にいたのは先の御台所だ」
頼嗣は一瞬、ポカンとして慌てて相槌を打った。
「先の御台さまといえば、竹御所さまにございますか?」
「さよう、あの頃は私も若かった。自分にも先の御台にも明日という日が必ずある、人生は永遠に希望と光に満ちたものであり、続いてゆくものだと信じていたよ。それが若さゆえの愚かさであったとも知らずに」
そこで頼経は息子を見た。
「このような話を聞くのはいやか?」
頼嗣は、これには即答した。
「いいえ」
更に慎重に言葉を吟味しつつ続ける。
「父上が竹御所さまにめぐり逢われたは我が母上を迎えられるはるか昔のこと、それは致し方のないことでございましょう」
頼経は淡く微笑した。
「私は十六で妻子を一度に失った。先御台を失った直後はまさに、自分一人が暗闇に放り出されたような心もちであったよ。これから自分は永遠にこの深い闇に囚われたまま生きてゆかなければならないのかと考えただけで、孤独に気が狂いそうになった」
「それほど深く竹御所さまを愛しておいでだったのですね」
頼経はそれには応えず、薄く笑んだままだった。が、その微笑が何よりの応えだと判る。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ