華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
やはり、千草も若い娘だ。台の上に並んだ様々に美しい小間物を眺めていると心が華やぐ。眼にも鮮やかな組紐、色々な大きさの櫛。
「それでは、こちらを」
千草が選んだのは手のひらに乗るほどの大きさの小振りの櫛であった。漆黒の宵闇を思わせる黒塗りに、純白のすみれの花が描かれている。花の真ん中部分には小さな石がはめ込まれている。
喜知次の丸顔が嬉しげに綻んだ。
「これは良いものを選ばれました。流石にお眼が高い。この櫛には本物の玉石が嵌め込まれておりましてな。何でも月長石と申すそうでございますよ。恋人同士を結びつけ、永遠の愛を約束してくれる、いわば夫婦和合の石だと言い伝えがあります。気に入ったのなら、遠慮なくお持ち下さりませ」
「かたじけない」
頼嗣が頭を小さく下げると、喜知次はニッと笑った。
「何の、それよりも、お屋敷にお帰りになったら、お父上によろしくお伝え下さい」
この小間物屋はどうでも十八年前に遭遇したのが父頼経だと信じて疑っていないようである。またそれは紛れもない事実であり、頼嗣は喜知次にそう確信させるほど、その頃の頼経にそっくりそのままの姿であったのだが―。まさか父までもが自分のように身をやつして御所を出てお忍びで町を徘徊していたとは想像もできない頼嗣であった。
「お父上は今ももちろん、お元気でしょうな」
念を押す喜知次に、頼嗣は深く頷いた。
「それならば良かった。お美しい母君さまもお変わりないので?」
そこで頼嗣は、はたと思案した。もちろん、彼が脳裡に思い描いたのは母大宮どのである。しかし、母は確かに年齢を感じさせない可愛らしい女性だが、そこまで強烈な印象に残るほど美しいといえるだろうか。
やはり、この商人が十八年前に見たという自分によく似た若い男は父ではないのだろう。父が連れていたという美女が母だというのは合点がいかない。
しかし、ここまで信じ込んで歓んでいる男に、わざわざ否定する必要もない。商人は既に五十近い歳だ。そろそろ老境にさしかかっている頃であり、そういう人間の心を踏みにじるほど、頼嗣は無慈悲でも冷淡でもなかった。
「また、ご縁があったら、お逢いしましょう」
喜知次の機嫌の良い声に見送られ、頼嗣と千草はまた大路を行き交う雑踏に紛れ、歩き始めた。
「不思議な方でしたね」
千草が言うと、頼嗣も頷いた。
「あの商人が出逢うたというのは真に父上なのであろうか」
千草は微笑した。
「あの方がおっしゃるように、世の中には自分に似た人が三人はいると申します。きっと、あの方が見たというのも頼嗣さまによく似た別の方だったのでしょう」
「であろうな」
千草の言葉に、頼嗣は漸く納得した顔になった。
「でも、もし別人であったのなら、このようなものを頂いて、かえって申し訳ない気がします」
千草は握りしめた櫛を見つめた。頼嗣が言う。
「あの者も申していたではないか」
―私にとっては、あなた方が彼のお二人の縁者であろうとなかろうと、そのようなことはどうでもよろしいのですよ。大切なのは、あのお二人によく似たお若い方にまた出逢えたというそのこと。
頼嗣は商人の言葉を繰り返した。
「あの者の気持ちとして、あの者がそなたにくれたのだ。歓んで貰っておいた方があの者も浮かばれるだろう」
「はい」
千草は素直に頷いた。
小間物屋が自分たちを兄妹だと勘違いした時、頼嗣ははっきりと否定してくれた。しかも、堂々と?妻?だと言ってくれたのだ。それが何故かとても嬉しい。
また頼嗣と手を繋いで歩く。頼嗣は向こうから人が来て衝突しそうになる度、さりげなく千草の前に立ち身をもって庇ってくれた。繋いだ手から頼嗣の温もりと想いが伝わってくるようで、心まで温かくなる。
千草はこの日のことを生涯忘れないだろうと、何故かこの時強く思ったのだった。あまりに幸せで、ボウっとしてしまい、雲の上を歩いているような、ふわふわとした覚束無い気分だ。だから、頼嗣が呼んでいるのにもなかなか気付かなかった。
「千草!」
頼嗣の声が耳を打ち、千草は狼狽えた
「は、はい。申し訳ございませぬ」
「何を心ここにあらずになっておる。何度呼びかけても返事もせぬとは」
嫌われてしまったかと慌てて見れば、言葉とは裏腹に頼嗣は笑っている。ホッとして、千草も微笑み返した。
「そんなに櫛を気に入ったのか。他の男から贈られたものでそのように心あらずになるとは、許し難い。さすれば、私はそなたには花を贈るとしよう」
頼嗣が示した前方には、花売りの老婆が大きな籠を背負って歩いていた。こちらに向かってうつむき加減に歩いてくる老婆に頼嗣は気軽に声をかけた。
「おい、そこの者」
花売りの老婆が顔を上げる。
「何か用ですかね」
「花を見せてくれ」
命じられ、老婆は?よいしょ?と声を出し、籠を降ろした。それを手伝ってやりながら、頼嗣は早速、花籠の中を覗き込む。
「なかなかみずみずしい花だな」
老婆が自慢げに鼻を鳴らした。
「そりゃ、儂の孫娘が朝早くに山に分け入って取ってくるからねえ。それに、儂の家でも仰山花を育ててるから、そりゃあ、猫の額ほど狭っくるしい庭がそれこそ花で埋まっとるわ」
千草が微笑んだ。
「素敵ですね。お家の庭がお花で一杯だなんて」
老婆がまた嬉しげに鼻を鳴らす。
「うちは儂(わし)の母親の代から花売りをしてますがね。貧乏でしたから、母親は花売りだけでなく産婆の真似事もしとりましてのう。そやけど、腕は滅法良いと評判で、そんじょそこらの藪医者よりはよほど腕利きだと言われましたがや。医者が見放したような難産の妊婦もたんと助けて無事身二つにしましたよ」
「お婆さんも産婆をしてらっしゃるの?」
「いんや、儂は母親ほど器用でも頭も良うはないですけえ。もし母親が生きておれば、儂の娘も孫を残して死ぬこともなかったでしょうがなあ」
「そう、ですか。でも、お孫さんがいらっしゃるから、先が楽しみですね」
千草が明るく言うと、老婆は皺に埋もれた眼をしばたたかせ頷いた。
「ええ、ええ、娘はお産で死んじまいましたが、孫を残していってくれましたでのう。この先は孫が嫁に行くまでは儂ももうひと踏ん張りせにゃあ」
千草は小柄な老婆の耳許で囁いた。
「もしお花が残ったときは、河越の屋敷に来て下さい。多分、買って差し上げることができると思いますからね」
老婆が眼を潤ませた。
「ありがたいことでございます。お優しい姫さまに御仏のご加護がありますように」
老婆は小さな皺だらけの手を合わせ、千草を仏を拝むように伏し拝んだ。
結局、その日は幸か不幸か殆ど売れたとのことで、籠に残っていたのは紫色の菫だけだった。
老婆は二人に幾度も深々と頭を下げて人波に紛れた。
「もっと様々な種類の花があれば良かったのだが」
その小さな後ろ姿を見送りつつ、頼嗣が言うと、千草は笑って首を振る。
「いいえ、これで十分にございます。ほら、ご覧下さいませ。先ほど小間物屋から頂いた櫛にも菫の花、頼嗣さまに買って頂いたのも菫にございます。二つとも同じ花とは何という偶然でしょう」
頼嗣も頷いた。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ