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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 楓は愕き、自身の身体を見つめるが、夢の中では実体がなく、楓の意識は感じられても姿は見えない。戸惑っている中に、眩しい光が眼前に洪水のように溢れ、思わずその眩しさに眼を閉じた。

 突然の覚醒が訪れ、楓は長い睫を震わせた。そっと眼を開くと、褥の上に上半身を起こす。小屋の東側には、小さな明かり取りの窓がついている。その窓の戸がわずかに開いて、そこからひとすじの光が差し込んでいた。
 改めて自分が何も身につけていないのに気付き、楓は頬を赤らめた。褥の傍に散らばっていた下着や小袖を手早く身につけ、帯を締めた。
 あれほど荒れ狂った夜は一夜して鎮まり、空も海も穏やかに凪いでいる。聞き慣れた潮騒の音がどこか懐かしく耳に響き、まるで子守歌を聞いた赤児のように心が安らいでいった。
 すぐ傍らでは、時繁が熟睡している。何もかも委ねて眠り込んでいるのは、彼が楓を信頼してくれている証だと思うと、彼への愛しさがふつふつと湧いてくる。
 楓は眠っている時繁を起こさないように気を付け、軋む戸をそっと開けて外に出た。二人が初めて出逢ったあの場所―浜辺まで歩く。
 海は今日も大きく偉大だ。その上にひろがる空は東の端から序々に茜色に染まり始めていた。空全体はまだ夜の名残を残し、薄い藍色がひろがっている。夜明けが近いのだ。
 楓は淡く微笑し、次第に明け初(そ)めてゆく黎明の空を眺めた。ふいに背後から抱きしめられた。
「―時繁さま?」
 時繁の逞しい胸が背中に当たっている。この温もりがこんなにも懐かしく愛おしいものになるとは思いもしなかった。
「目覚めたら、楓がいない。俺を置き去りにして、河越の屋敷に戻ってしまったのかと思った」
 彼らしくない気弱な呟きに、楓は嬉しいような困ったような気持ちになり、眉尻を下げた。
「どこにも行かないでくれ」
 時繁が顎を楓の頭に乗せるのが判った。より強く抱きしめられ、楓は深く頷いた。
「私はどこにも行きません。これからは生きるときも死ぬときも、時繁さまと一緒、あなたさまの隣が私の生きてゆく場所です」
「後悔はないか?」
 いつもは自信に満ちた物言いをする彼には珍しく、今朝の彼は気弱だ。楓は殊更明るく微笑んだ。
「何度も言わせないで下さい。私は時繁さまを心よりお慕いしておりますから、たとえ、あなたさまが出てゆけと仰せになっても、あなたさまの傍を離れません」
「可愛いことを言うな、楓は。その昔、唐という国には玄宗皇帝という悪名高い帝がいたそうだ。玄宗は楊貴妃という稀代の妖婦に惑わされて国を傾けたというが、俺も楓の色香に血迷って、とんでもない腑抜けた男になりそうだよ」
「まあ、私は稀代の妖婦でもないし、そもそも殿方を惑わせるほどの色気なんてありません」
 呆れて言いながら、ふと違和感を憶えた。何故、一介の漁師が唐のいにしえの皇帝の逸話など知っているのだろうか。が、すぐに彼が元々は武家の生まれだったと語っていたのを思い出す。
 しかし、彼はあの時、下級武士だと言っていたはず。下級武士にすぎない生まれの者がいきなり外つ国の皇帝について語るというのも不自然な気がする。
 と、楓の思考はそこで中断された。今、輝く日輪が東の空を黎明の色に染めながら、まさに天高く昇ってゆこうとしている。
「綺麗」
 思わず呟いた彼女の横で、時繁もまた感慨深そうに朝陽を眺めていた。
「結婚しよう、楓」
 楓はハッとして時繁を見た。彼は晴れやかな表情で生まれたばかりの輝く太陽を見ている。
「祝言も何もしてやれない。でも、今日から俺たちは夫婦(めおと)だ」
「はい」
 楓も深く頷いた。光り輝く太陽を見ている中に、昨夜見た不思議な夢のことを思い出し、楓は問わず語りに口にした。
「時繁さま、昨夜、とても不思議な夢を見たのです」
「―夢?」
 時繁が興味をそそられたようにこちらを向く。
「水龍が天翔る夢といえば、お笑いなりますか?」
「水龍―」
 彼が眼をまたたかせた。楓は夢の一部始終をかいつまんで話した。
「貴人の盛装をした童子が琵琶を弾きながら平家物語を語ったと」
 最後に水龍が光り輝く玉となり楓の胎内に入ったと聞いた彼は息を呑んだ。
「―」
 ふいに黙り込んだ時繁は何かをしきりに考え込んでいるようだ。楓は不安になった。
「私、何か良くないことを申し上げたのでしょうか?」
「いや、別にそんなことはない。昨夜は楓も色々とあったし、気が動転していたから、あり得ない夢を見ただけだろう。気にするな」
 一瞬の後、時繁はもう屈託ない彼に戻り、優しく楓に微笑みかけたのだった。

 源氏の一族

 その日から、楓の新しい日々が始まった。時繁は得難い良人となった。妻を労り、声を荒げることなどなく、よく働く。夜は楓を情熱的に幾度も求め、時には暴走しすぎて楓を泣かせることもしばしばだったが―、それも良人に愛されている裏返しだと思えるのも、楓もまた時繁に腑抜けるほど惚れているからだろう。
 結ばれてひと月が経った頃、二人は連れ立って町に出かけた。楓は人眼に立ってはまずいため、滅多と町には出ない。今のところ、河越家では楓は急病にて伊豆で療養中と苦しい言い訳をしているらしい。北条との縁談はこれにより、無期延期、つまり事実上の破談となったと聞いた。
 時繁は毎日、漁に出て獲った魚を町へ出て売りさばいてくる。その折々に得た情報では、河越恒正は突如として行方知れずになった娘をしばらくは手を尽くして探させていたらしい。しかし、娘の行方は杳として知れず、探索は十日余りで打ち切られたとのことだった。
「さつきは? さつきはどうなったか判りませんでしたか?」
 楓は時繁に勢い込んで訊ねたけれど、彼は申し訳なさそうに首を振った。
「悪いが、乳母どのの消息は知れなかった」
 魚の行商をしながら町を歩くため、比較的情報を手に入れやすい立場ではあるが、あまりに執拗に河越の娘のことばかりを訊き出していては、逆に怪しまれかねず、そこから足が付いてしまうこともある。
 それを考えれば、これ以上、踏み込んで訊ね回るわけにはゆかなかった。さつきは北条時晴との婚礼前夜、楓を意図的に逃がした。仮に故意ではないと恒正が認めたとしても、乳母として姫君監督不行届の責任は大きいだろう。
 何らかの処罰を受けたのは明白で、楓としては、それが知りたかった。が、時繁の立場を思えば、これ以上の無理は言えない。また、それが原因で河越の父の手の者に見つかり、無理に時繁と引き離されることになっては悔やんでも悔やみきれない。
 その日は、ひと月ぶりの外出で、楓も何とはなしに浮き浮きと心が弾んでいた。河越の探索が無くなって既に半月は経過している。用心のため、楓は市女笠の周囲に紗(うすぎぬ)を垂らしたものを目深に被り、漁師の女房らしい粗末ななりをしていた。
 もっとも、時繁と暮らすようになって以来、文字どおり漁師の女房だったから、暮らしに合った質素な小袖しか買えなかった。屋敷を出た時、身に纏っていた小袖は上物だったため、古着屋で売ることも考えたが、そこからまた河越の父に居場所を知られては困ると止めた。