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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 用心には用心を重ね、時繁は目抜き通りには行かず、あまり人通りのない道を選んで歩いた。それでも、道の両脇には露店が居並び、物売りのかしましい声が聞こえている。
 鎌倉こそが今は都とは、誰もが認める動かしようのない事実であった。市の賑わいや道をゆく人々の活気に満ちた表情はこれから伸びてゆくこの東の武士の都のゆく末を示し、ことほいでいるかのようである。
 楓の手を引いて歩いていた時繁が突如として止まった。
「何か欲しいものはない?」
 楓は眼をこらして紗の向こう側を透かし見た。見れば、正面には小さな露店があった。台の上に様々な櫛が並んでいる。
「可愛いわ」
 傍らの時繁を見上げて微笑んだ。
「では、一つ買ってあげよう」
 楓は慌てた。
「いえ、要りません。大丈夫です」
 魚を獲って稼ぐ日銭は知れている。そんな贅沢品は買えないと言おうとしたのに、時繁は有無を言わせず手に取った櫛を買い求めていた。
「可愛い奥さんに」
 差し出された大きな手のひらには不似合いな小さな櫛は、黒塗りで白く桜が描かれていた。一箇所だけだが、小粒の真珠もはめこまれている。高かったに違いなく、楓は胸が熱くなった。
「ありがとうございます。大切にしますね」
 櫛を押し頂くようにして眼を潤ませる妻を、時繁は切なげに見つめる。
「済まない、俺が甲斐性なしなばかりに、楓には辛い想いばかりさせる。お前も年頃の娘だ、綺麗な着物や紅も簪も欲しかろうに」
 楓は真顔で首を振った。
「時繁さま、そんなことはありません。私は時繁さまのお側にいられるだけで幸せなのです。それに、私は河越の屋敷にいた頃から、綺麗な小袖にもお化粧にも興味はありませんでした。ですから、どうか、そんなことでお悩みにならないで下さい」
「楓は優しい娘だな」
 時繁は泣き笑いの表情で言った。
「だが、俺も男だ、たまには楓に頼られたい。いつも我慢ばかりせずに甘えてくれ」
「はい」
 楓は元気よく頷くと、櫛屋の傍らで野菜を売っている老婆を見つけて歓声を上げた。
「時繁さま、見て。大根がたくさんあるわ。今日は時繁さまが獲ってきた鰯と大根にしまょう。大根は少し辛めに煮れば、お酒のつまみにもなりますよ?」
 言い終わらない中に老婆に近づき、山盛りになった大根を間に、にこやかに話している。
「閨の中では随分と大人になったのに、昼間は最初に出逢ったときと変わらぬな、まるで子どもだ」
 時繁は呟き、妻と過ごす毎夜の濃密な時間を思い出し、それから我に返った。二十歳で所帯を持つまでにむろん女性経験はあった。数度関係を持ったのはもちろん素人女ではなく、辻で春をひさぐ女であった。
 だが、時繁は特に自分が好色だと思ったことはないし、適度に欲求が満たされれば無理に女を抱きたいと思ったことはない。なのに、楓が傍にいると、つい触れたくて手を伸ばし、触れれば、そのみずみずしい肢体を抱きたいと思う。しかも、ひとたび火が付けば楓が泣いて許してと泣くまで、ひたすらその身体を求めずにはいられない。
 だとしたら、自分がよほどの好色漢だったのか、それとも、楓だから泣かせるまで烈しく求めるのか―。恐らくは後者なのだろうが、どちらにしても、楓にとっては迷惑な話かもしれない。
 それでも、妻と過ごす今夜を想像しただけで、あられもない話だけれど、身体がすぐに反応してしまう。交渉成立したらしい。楓が腕に大きな大根を二本抱えて走ってくる。
「おい、大きな大根を抱えて往来を走ったら危ないぞ」
 過保護ぶりを発揮し、時繁は妻の手から大根を造作もなく受け取った。
「時繁さま、以前から申し上げようと思っていたのですが、私はもう十六です。子どもではないのですゆえ、子ども扱いはしないで下さい」
 楓が頬を膨らませるのに、時繁は笑った。
「ほれ、そういうところが子どもだというんだ、すぐに拗ねるだろう」
 やわらかな頬を指でつつくと、更に楓は膨れる。
「知りません」
 怒った楓は一人で先に歩いていった。時繁は慌てて追いかけてゆく。
「お前が子どもでないことはよく判ってる」
「本当ですか?」
 期待に込めた眼で見上げる無垢な瞳に、時繁は耳許で囁いた。
「閨で見る楓の身体はどう見ても子どもじゃない、立派な大人だ」
 楓は瞬時に真っ赤になり、拳を振り上げた。
「酷い、それでは私が身体だけ大人で、頭の弱い娘のようではありませんか!」
 可愛い妻は本気で怒っている。大きな黒い瞳には涙さえ浮かべていた。
 時繁は狼狽える。楓に泣かれるのはいちばん弱いのである。
「す、済まん。別にそういう意味で言ったのではないんだ」
 楓の振り回した拳が時繁の腕に当たった。
「痛ぇ。この暴力女め、今夜はお仕置きだ。覚悟しておけよ?」
 わざと蠱惑的な声音で囁くと、楓は熟した林檎のように紅くなる。楓が今夜の夫婦の営みを想像しているのは明らかだ。
 泣かせて嗜虐的な歓びを感じるのは閨の中だけで良い。しかも、楓は彼のために慣れない料理も頑張って拵えている。少しでも彼を歓ばせようと奮闘しているのはいじらしいほどだ。何しろ河越家の姫として大切に育てられた楓には料理をしたことがあまりない。
 今でも、砂糖と塩を間違えたりすることは日常茶飯事で、彼はひと口食べただけで吹いてしまいそうな代物を食べさせられている。それをさも美味しそうに食べるのは、いかに楓を愛している時繁にも至難の業だ。
 今夜も彼のために腕を振るおうと期待に眼を輝かせている楓に、実は夕餉よりはその後の夫婦の密事の方が愉しみなのだとは口が裂けても言えなかった。そんなことを口にでもすれば、楓は本当に怒って出ていってしまうかもしれない。どこまでも楓に弱い時繁である。
 二人はいつしか喧嘩していたことも忘れ、楓は時繁の腕に自分の腕を絡めて、老婆が大根の他に青菜もおまけしてくれたのだと得意げに良人に報告した。寄り添って歩くその姿は、どこから見ても仲睦まじい若夫婦そのものだった。 

 楓は毎日、幸せだった。愛する男の傍にいられるのがこんなにも幸せだったなんて、考えたこともなかった。父の命じるままに北条時晴に嫁がなくて良かったとつくづく思う。
 町に出かけた数日後の昼下がり、楓は時繁の着物を繕っていた。こう見えても、料理は苦手だけれど、裁縫は得意なのだ。小袖も縫おうと思えば縫える。時繁のためにも新しい小袖と袴を用意してあげたい。それも漁師が着るような簡素のものではなく、武士が着るような、それなりのものを。
 元々、彼の両親は武家だと言っていた。そんな彼に一度だけでも武士としての晴れ着、狩衣を着せてあげたい。でも、今は彼は漁師なのだ。余計なことをするとかえって怒るだろうか。それでも、楓は狩衣を着て盛装した彼を見てみたいと思った。
 だが、そのためには布を買う必要がある。時繁は楓に町で魚を売ってきた金はすべて渡してくれている。その金はたいしたものではないが、時繁は楓の好きに使って良いと言ってくれていた。かといって慎ましい暮らしを維持しなければならないと判ってるのに、無駄遣いはできない。なので、日々の糧を得る以外に使うことはなかった。