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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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「良いのか? 今ならまだ途中で引き返せる。挿入っているのは半分ほどだから。だが、これから先に進めば、俺は止められない。楓が泣いて嫌がっても止めて欲しいと頼んでも、俺は止めてはやれないぞ、それでも良いのか?」
 最後の言葉で、時繁が単に楓の痛みのことだけでなく、彼との結婚―時繁と生きる道を選ぶことそのものについても今なら引き返せると警告しているのが判った。
「今更、あなたがここで止めてしまった方が私は哀しいわ」
 何もかも棄てて選んだ道だから、あなたと生きたいと願い、生まれてから十六年間過ごしてきた家もたった一人の父親ですらも棄ててきたのだから。
 だから、私にこの道を選んだことを後悔させないで。
 楓の瞳の奥に閃いた決意を見たのか、時繁は頷いた。
「判った、お前が今夜、俺を選んでくれたことを後悔させないようにする」
 その言葉が終わらない中に、今度こそ時繁は一挙に挿入ってきた。深々と最奥まで刺し貫かれ、楓は想像を絶する痛みに涙を流した。しかし、それは痛みからくるものだけではなく、愛しい男と結ばれた歓びの涙でもあった。
 いつしか風が出てきたのか、戸外では風が唸り吹きすさぶ音が聞こえていた。この嵐で、八分咲きになった桜も散るかもしれない。
 楓の瞼の向こうでは、嵐に翻弄される薄紅色の花びらが舞い踊っていた。時繁の動きは実に多彩を極めた。あるときは腰を回しあるときは彼自身を抜けそうなほど引き抜いて、またひと息に差し貫く。
 彼は直に楓自身の感じやすい箇所を知ったらしく、楓が反応を返した場所を執拗に責め立ててくる。そんなことを繰り返している中に、痛みしかなかった感覚の中に、次第にくすぐったいような―いや、くすぐったいのとも違う心地良さのようなものが混じり始めた。
 時繁は注意深く楓の様子を見ながら動いている。最後に時繁が楓の最奥の最も感じやすい壁めがけて突き上げた瞬間、ひときわ大きな快感の波に見舞われた。瞼の中で雪のような薄紅色の花片が降り注ぎ、花びらと戯れ合うように無数のきらめく蒼い蝶が飛び交っている。
 蝶と花びらはやがて煌めく光の塵となり、大きく一つの輪となり旋回していきながら消えていった。

 果てのない交わりの最中、ついに意識を手放した楓を時繁は切なげな瞳で見つめた。
 誰かを愛することは素晴らしいことである反面、怖ろしいこと、危険極まりないことでもある。大切な存在を得た時、人はそれを失えば、どうなるのか? 
 自分にはいまだ果たすべき復讐がある。既に彼は楓が頼朝第一の近臣、河越恒正の娘であることを知っている。この世で最も愛しい女の素性を知りながら、俺はそれでも復讐を止めることはできないのだ。
 自分の真実の姿を知れば、楓はきっと彼への信頼を棄て、憎むようにさえなるだろう。それが彼には何より怖ろしい。漸く見つけた愛する者、家族と呼べる存在を失うのがよもや、こんなにも怖いものだとは考えたこともなかった。
 思えば、自分はあまりにも長い間、深すぎる孤独の中で生きてきたかもしれない。時繁は深い息をつき、ゆるりと首を振った。
―お前が俺の正体を知って離れてゆこうとした時、俺はお前を潔く手放せるだろうか?
 彼は妻となったばかりの愛する女の髪を宝物のように撫でる。初めて男を受け容れる娘をさんざん啼かせ、挙げ句には許しを請うまで責め立てた。
 楓の目尻に堪った涙の雫を親指の腹でぬぐい、時繁はもう一度、切なげなまなざしで妻を見つめた。
 彼は立ち上がり、小さな小屋に一つしかない明かり取りの窓から外を覗いた。海はどす黒く染まり、今は海鳴りよりも吹き荒れる風の音が耳をつんざく。
 あれほど穏やかな月夜であったのが、嘘のような荒れようだ。自分たちが結ばれた夜が滅多にない嵐とは。暗い色に染まった荒れる海は自分の心のようだ。
 憎しみに満ちた自分の心。もう一度、背後を振り返り、楓の安らいだ寝顔を見る。何があっても、この女だけは哀しませたくない、裏切りたくない。
 だが、自分がこれからなそうとしていること、なさねばならぬことは明らかに彼女への裏切り行為となろう。かといって、無念の想いを抱き海に散っていった祖母や伯父、一門の恨みを今になって忘れることもできはしないのだ。

 夢の中で楓は天(そら)を駆けていた。いや、天というよりは宙(そら)と形容した方が良いのだろうか。普段眼にするよりは何倍も濃い藍色の蒼空を大きな龍が翔けている。
 龍はよく屏風絵などで見るものと形は似ているが、はっきりと違いは認識できる。体全体が透き通るようで、大きな体のところどころに銀色の鱗が燦然と輝いている。その鱗が濡れたように輝いているため、龍全体がしっとりと濡れているように見えた。
 龍の周囲を蓮の花びらが舞い、そのはるか彼方には蒼い月が丸くくっきりと浮かんでいるのが見える。
 これは、水龍。
 火を司る火龍に対し、水を司る水龍ではないか。水龍は気持ち良さげに巨躯をくねらせ、蒼空を旋回し泳ぐ。時折、銀色に光る角と髭を震わせ、回りを揺るがせるような雄叫びを上げる。
 しかし、不思議なことに、その魂を揺すぶられるような咆哮を聞いても、楓は少しも怖ろしいとは思わず、むしろ、心が凪いだ海のように静まってゆくのを感じていた。
 更に面妖なことは続く。龍の背に突然、一人の少年が出現したのである。少年はまだ元服前、十歳ほどで童水干姿だ。深紅の小袖袴に白い水干を纏っている。貴人が纏う色だ。
 美しい少年が琵琶をかき鳴らし始める。
 ふいに玲瓏とした声が哀切な琵琶の音色に乗って流れてきた。

 祇園精舎の鐘の声
 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色  
 盛者必衰の理を表す
 おごれる者も久しからず
 ただ春の夜の夢のごとし

 楓の眼に熱い滴が滲んでいた。何という哀しい詩だろう。これは確かに?平家物語?ではないだろうか。
 源氏の宿敵平家が滅びたのは今から十三年前のことになる。平家滅亡を決定的にしたのは源頼朝の異母弟義経だった。だが、滅ぼしたのは義経でも、すべての采配をふるい義経に平家追討を命じたのは鎌倉の頼朝だ。
 そして、平家滅亡に大功のあった義経を頼朝は後に用済みとばかりに討ち滅ぼした。平家にとって源氏は百年千年経とうが、けして許せない宿敵に相違ない。頼朝の第一の側近として長年仕え続けてきた父河越恒正もまた紛うことなく源氏の一党であり、平家滅亡にはひと役もふた役も買っていた。
 平家物語はこの悲運の平家一門の栄枯盛衰を描いた軍記物語である。
 楓自身は源氏側の娘として生まれたものの、平家滅亡のときはまだ襁褓の取れぬ赤児に過ぎず、そのときのことは物語としてしか知らない。
 が、今、この少年が切々と歌い上げる平家物語からは、無残に討ち滅ぼされた平家一門の深い悲嘆が伝わってきて、哀しみに同調するあまり膚が粟立つほどだった。
 楓が少年の歌声に涙しているその最中、ふいに勇壮な龍の姿も少年もかき消えた。代わりに蒼空にぽっかりと浮かんでいるのは透き通った光り輝く手のひら大の玉。
 玉は水晶のように見えるが、ゆらゆらと浮かび漂っている。息を呑んで見つめていると、やがて小さな光る玉はスウーと流れて見守る楓の胎内へと入った。
―え?