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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 場所は小御所ではなく、河越の屋敷だったと思う。いつまで待っても雀は来ず、先に千草の方が待ちきれずに愚図りだしたのを頼嗣が宥めて待っていた。すると、雀が一匹、誘われたか飛んできた。
―おい、来たぞ。
―本当。
 二人は瞳を輝かせてなりゆきを見守った。可愛らしい雀はチュンチュンと囀りながら、米粒に近づき啄み始めた。
―やった。
 頼嗣が歓声を上げる間もなく、千草が物陰から飛び出した。
―千草、行くな。雀に気付かれたら、逃げるぞ。
―だって、待ちきれないもの。大丈夫、脚音を立てなければ良いのでしょ。
 止めた甲斐もなく、千草は雀に近づいてゆく。小さな脚を踏み出したその時、地面に落ちていた枯れ枝を踏みしめ、パキリと音が響いた。案の定、雀は愕き、そのまま翼をひろげて飛び立った。
―ああ、雀が逃げた。
 千草は途端に泣き出した。
―だから言ったであろう。そなたは慌て者だな、もう少し大人しく待っておれば、雀も罠にかかったであろうに。
 頼嗣はまた余計なひと言を口にした。
―されど、源氏のあの場面では、犬君が雀を逃がしたと紫の上は泣いたのだから、まさに、雀が逃げて千草が泣いて、源氏物語のとおりになった。そなたが望む?源氏ごっこ?だ。
―酷い、千手丸さまは雀が逃げて悔しがっている私をご覧になり、歓んでいるのですね。
 余計に泣き出した千草を宥めるのは頼嗣にとっても至難の業であった。
「あれで気が長いとは、よく言ったものだ」
 あの遠い日のことを思い出し、頼嗣は笑った。千草はといえば、遠い眼になっている。
「伏籠の雀を犬君が逃がしつる」
 それは?源氏物語?の若紫の一文だ。千草のはるかな視線は海の方に向いている。
「頼嗣さま、あの頃から、私の心の中ではいつも頼嗣さまが私の光君(ひかるきみ)でした。ずっとずっと、その想いは変わらなくて。でも、こんな私が頼嗣さまのお側にずっといることを望んでも良いのでしょうか?」
 頼嗣は深く頷いた。
「私もそなたと同じ想いだ、千草。私たちは共に同じ想いを抱いて、同じ時間を過ごしてきた。私たちの想いに対して周囲は冷淡であろうが、二人の想いが同じである限り、どんな困難でも乗り越えられるだろう。それに」
 頼嗣は千草を再び引き寄せる。彼は千草の頤(おとがい)に手をかけ、そっと仰のかせた。
「私がそなたを望んでいる。私の心がそなたでなければ駄目だとしきりに訴えている。だから、もう何も言わず、先刻も申したように私だけを真っすぐに見つめて付いてきてくれ。私は必ずそなたを妻にする」
 唇が重なる。小鳥が啄むような口づけから、やがて深く唇を結び合わせる。それは二人にとって初めての口づけだった。
 二人の背後では、鎌倉の海が春の陽差しに煌めき、由比ヶ浜を絶えることのない波が洗っていた。
 時に建長二年(一二五二)、海風はまだ冷たさを孕んでいる。春三月、鎌倉の春はまだ少し先で足踏みしているようであった。
 由比ヶ浜を離れ、二人はいつものように鎌倉の町の賑わいを抜けて帰路を辿った。いつもと一つだけ違うのは、頼嗣が千草の手をしっかりと握りしめていることだけだ。まるで手を放せば千草がすぐに翼をひろげて逃げてしまうとでもいうかのように、頼嗣は千草の手をきつく握って放さない。
 千草はおずおずと傍らの頼嗣を見上げた。
―いつのまに、こんなに背が伸びてしまわれたのかしら。
 子どもの頃、頼嗣はどちらかといえば、小柄だった。背丈も同い年の二人が並べば、ほぼ変わらないほどだったのである。頼嗣の父頼経は現在、?大御所?とか?大殿?とか呼ばれている。隠居暮らしとはいえ、まだ三十四歳の若さだ。穏和な慈悲深い人柄で知られ、前将軍の御世を惜しむ心ある御家人たちも少なくはない。
 その頼経も大柄な男だから、頼嗣が今ではかなり上背があるほどに成長したのも納得はゆく。
 でも、千草自身は今まで気付かなかった。頼嗣の背がどんどん伸びて、じぶんを追い越してゆくのも、こんな風に凛々しい貴公子になったのも。ただ、彼の側で刻を過ごし、彼を好きだという想いをずっと心の内で育ててきた。彼が将軍であるとか、どれだけの端正な面立ちをした美男であるかとか、そんなことは関わりない。
 千手丸といっていた幼少の頃から、頼嗣その人に恋をしたのだ。
 たとえ頼嗣が将軍という至高の立場になくても、ただの賤(しず)の男(お)だったとしても、この気持ちに変わりはないと胸を張って言える。
「あの―」
 千草が遠慮がちに言うと、頼嗣が振り向いた。
「何だ?」
「少し力を緩めて頂けませんか? 手が痛くて」
 そこで、頼嗣が眼を見開いた。
「済まぬ、あまりに強く握りしめていたのだな」
 そこで、彼はホウと小さな息を吐いた。気遣わしげに千草を見やる。
「いつものそなたと違うみたいだ。お転婆娘がまるで借りてきた猫のように大人しくしている。もしや私がそなたを好きだと申したのが迷惑なのではあるまいな?」
 千草は微笑んだ。
「まさか、私、とても嬉しいのです。本当はそんなことを思うても願うてもいけないと判りきっているのに、頼嗣さまの妻にして頂けるのだと思うと、つい嬉しくて」
 そう、彼が将軍になる前から、この恋心はずっと封印して生きてゆく覚悟はできていた。子ども心に母から言われた言葉
―ゆめ、千手丸さまをお慕いしてはならぬぞ。そなたが将軍家に嫁すことなど、あり得ぬ。
 その意味は幼いなりに理解していた。
 この恋はけして成就しない。この想いを伝えてはならない。自分に固く戒めて生きてきたのだ。今も母の言葉の意味は十二分に理解している。なのに、今日、頼嗣その人から?妻にする?と真摯な表情で言われ、こんなにも心が弾んでいる。
 自分はこの先を望んでも良いのだろうか。
 この方の隣がずっと自分の居場所だと信じて良いのか。
 頼嗣も既に覚悟しているように、この恋の成就は極めて難しい。執権北条経時は己が妹を御台所の座に据えようとしている。そして、頼嗣の言う?妻?とは、側妾ではなく正室としての意味合いを含んでいる。それは即ち、執権の妹姫を押しのけて河越氏の娘が御台所の座につくことだ。果たして、そんなことが本当に可能なのだろうか。
 たとえ頼嗣本人がどれほど望んだとしても、執権経時はもちろん、頼嗣の父頼経どころか、千草の両親ですら許さないだろう。
 今は将軍家の乳人として絶大な権力を握る河越氏だが、所詮、代々執権を務める北条得宗家に敵いはしない。北条に楯突くことはそのまま破滅を意味する。
 黙って大人しくしていれば今の権勢を保てるのに、わざわざ事を荒立てる必要はない。父康英は無骨な東国武者を絵に描いたような男で、政にも人の機微にもまるで疎いが、その程度のことは理解しているはずだ。
 つまり、現段階では、二人の恋の後ろ盾となってくれそうな人は誰もいない。そんな中で、頼嗣は揺らぐな、彼だけを信じて付いて来いという。果たして、私にそんな強さがあるだろうか。
 考えれば考えるほど、頼嗣と自分の恋に明るい未来を思い描けなくて、泣きそうになってしまう。いつものように元気がないのは、そのせいもあった。