華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
北条氏と河越氏は今や幕府内を二分する大勢力といって良い。しかし、執権という将軍をも凌ぐ重職についている限り、北条得宗家が一歩も二歩も先んじていることは明らかだ。将軍は幕府の象徴にすぎず、現実に幕政を動かしているのは執権その人なのだから。康英もこれ以上、執権に対して無用の警戒心を抱かせないようにした方が賢明と判断してのことだろう。
河越氏の立場もそれを取り巻く状況も難しいもので、一歩判断を間違えば生命取りになる。そのことは頼嗣だとて重々承知していた。けれど、頼嗣の心が欲しているのは、ただ一人の女だけなのだ。他の女は要らない。
「河越と北条はいずれ引けを取らぬ名門であり、幕府の中でも重きをなす筆頭御家人。そなたであれば、執権の妹とも同等に渡り合える」
頼嗣の言葉に、千草が咄嗟に視線を逸らす。
頼嗣が烈しい声で言った。
「何故だ? 何故、そなたは私から眼を逸らすのだ」
彼は千草のか細い肩を両手で掴んだ。母の菊乃は大柄だが、千草は身の丈はさほど高くはない。その千草は頼嗣に力任せに身体を揺さぶられるままになっている。
「頼嗣さま―いえ、いつまでもこのようにお呼びすること自体が間違っているのですね。御所さま、私と北条の姫さまとでは到底、比べものにもなりません」
「何故?」
千草の声が戦慄(わなな)いているのに気付き、頼嗣はその手を放した。そっと引き寄せ、子どもを宥めるかのようにその背を撫でる。
「悪かった。今日の私は、どうかしているようだ。さりながら、私が心に決めた女は一人しかおらぬ。そなたは、あの約束を憶えてはおらぬか?」
耳許で囁くと、千草は厭々をするように小さくかぶりを振った。
「北条家は代々執権を務めるお家柄、私の家はたまたま母が大御所さまの信任厚く、頼嗣さまの乳母を命じられたにすぎませぬ。たとえ今は力を持っていても、所詮はそれだけのことです」
頼嗣は真摯な声で問うた。
「私はそのようなことを訊ねているのではない。千草はあの日の約束を憶えてはいないのかと訊いておる」
千草から低いすすり泣きが洩れた。
「憶えておりまする。忘れるはずがないではありませんか。五歳のときの、睡蓮の池での出来事でございましょう。ですが、あれは所詮は子どもの口約束、何ほどの意味があるとは思えませぬ」
頼嗣の声がまた少し大きくなった。
「そなたは本当にそのように思っているのか。あの約束には何の意味もないものだと」
千草は無言のままだ。静かな空間に、ただ潮騒の音だけがひそやかに鳴り響いていた。
「私はあの約束をとても大切なものだとずっと思うてきた。妻に迎えるのなら、他の誰でもない、そなた以外は考えられぬ」
その言葉に、弾かれたように千草が顔を上げた。
「私だって、同じにございます。頼嗣さま、私もずっとずっと、心の中であの約束を後生大事に宝物のように抱(いだ)いて参りました。されど、どう考えてみても、頼嗣さまのご正室としてふさわしいのは河越の娘である私ではなく、執権どのの妹姫さまです。これは変えようのない事実なのです」
千草の黒目がちな瞳には大きな露の滴(しずく)が宿っていた。
頼嗣はその涙に胸をつかれた。自分は生涯に一人と決めた大切な娘をこうまで追いつめ哀しませているのかと思うと、男として情けなかった。
「頼むから、泣くな。別に私はそなたを苦しめたいわけではないのだ、ただ、私が北条の姫を迎えても、そなたはそれで良いのかと訊ねているだけなのだから」
千草は烈しく首を振った。
「いやでございます。頼嗣さまが北条の姫さまに優しく微笑みかけられているお姿なんて、見るどころか想像したくもありません。でも、所詮は叶わない望みなのです」
頼嗣は茫然と呟いた。
「それでは、そなたも―」
こんなときだというのに、何故か歓びが身体の奥底からふつふつと沸き立つようでもあり、我ながら現金なものだと呆れてしまう。
千草が泣きながら言う。
「私は御所さまをお慕いしております」
やっとそのひと言が聞けた―それは二人にとって初めて想いを確認し合った歓びの瞬間でもあったが、同時に、この恋の行く手がどれほど険しいものかとを思い知らされたときでもあった。
思えば物心つくかつかぬの時分から姉と弟のように育ち、いつも一緒に遊んでいた。頼嗣が五歳で将軍になるまでは離れることさえないほどだったのだ。
それが、あの約束を交わしてからほどなく、頼嗣の運命は激変した。嫡男である以上、いずれは将軍になることも自覚はしていた。が、父頼経はまだ若く、隠居するような歳ではなかった。なのに、執権経時は父を強制的に退け、隠居させた。父は表立って口には出さないが、退職に追い込んだ北条得宗家をけして許してはいないだろう。
それは息子である我が身も同じだ。ただでさえ将軍は執権の意のままになる飾り物だと皆から囁かれている。今、執権の妹を御台所に迎えたりでもしようものなら、北条は将軍の外戚となり更に我が物顔でふるまうのは必定だ。政治的に考えても執権の妹を娶るのはますます将軍家を窮地に追い込むことだとは判るし、一人の男としても惚れた娘がいるのに、他の女を娶ることなど無理な話だ。
だが、私はけして諦めない。頼嗣のくっきりとした瞳に強い意思の光が宿った。
「千草、私の気持ちもそなたと同じだ。物心ついたときから、共に長い生涯を歩くのはそなたしかおらぬと心に思い定めてきた。だから、泣くのを止めてくれ。たとえどれほどの困難と試練があろうと、私はそなたを妻に迎えて見せる。ゆえに、そなたも私を信じて、何があっても揺らがないで欲しい。北条の縁戚だという男に嫁いだりせず、私だけを見つめて、私について来て」
「―はい」
千草が頷き、おずおずと見上げる。まだ涙の雫の堪った瞳で無心に見つめる千草をこの時ほど愛おしいと思ったことはなかった。頼嗣は千草を力の限り抱きしめた。
「長い時間を要するだろう。執権を説き伏せるのは容易ではないのは察しはつくが、大御所さま(頼経)やそなたの父も簡単に頷く話だとは思えぬ。だが、私はやり遂げて見せるつもりだ。そなたは、それに耐えて待ち続けることができるか?」
「大丈夫です、私はこう見えても、気が長いのだけが取り柄なんですから」
その科白に、頼嗣はプッと吹き出した。
千草が腕の中で身じろぐ気配がする。
「な、何です、何で、お笑いになるのですか!」
頼嗣が身体を揺すって笑う。
「いつだったか、雀を捕ったことがあるのを憶えているか?」
「えっ、ええ、それは憶えていますけど」
あれも睡蓮の池で無邪気に戯れた日の少し前のことだった。
その頃、『源氏物語』に俄にめざめた千草は?源氏ごっこ?というのをしきりにやりたがった。その中で?若紫?の中の一場面、まだ幼かった紫の上が
―犬君(いぬき)という女の童(側仕えの少女)が伏籠に入れておいた雀を逃がしてしまったの。
と、泣いて悔しがるところがある。
あれをやりたいと言い出し、まずは雀を捕らえようと伏籠(ふせご)を用意し罠をこしらえ、地面に米粒を撒いて雀がやってくるのを物陰から二人して見ていた。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ