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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 千草の雨乞いが功を奏したのかどうか、翌日から雨が降り始めた。あれほど輝いていた空は鈍色の雲に覆い尽くされ、雨は数日に渡って降り続けた。この雨により、将軍頼経が鎌倉どのとしての器ではない―と、妙な難癖をつけていた北条得宗家は口をつぐむ他なかった。
―鎌倉を治めるやんごとなき御方がその器にあらずと天の神もお怒りになっているのだ。
 それが得宗家の言い分であり主張であった。単なる頼経の立場を不利にするためのこじつけに過ぎないと判ってはいても、やはり外聞の良いものではない。また、当時はそういった天変地異や疫病の流行などは時の為政者に対して天が怒りを示していると民衆は信じる傾向があった。
 その頃、千手丸はまだ幼すぎて知り得なかったことだったが、その噂はむろん、執権経時が故意に流したものだったのである。
 雨が降ったことにより、この不穏な噂はとりあえず鳴りは潜めた。
 だが―。その年の中に、父頼経は執権からの圧力についに抗しがたく、千手丸に将軍職を譲って隠居に追い込まれた。
 ここに千手丸はわずか五歳の幼将軍となり、幕府はこの幼い将軍を頭に頂くことになる。

 浜辺の約束

 今日も鎌倉の早春の海は蒼い。そして、その上にひろがる空は海の色をそのまま写し取ったように蒼かった。
 絶え間ない海鳴りに時折、少女の歓声が混じる。
「頼嗣さま」
 その澄んだ声にいざなわれるように振り向いた頼嗣は真正面から水をまともに浴びせかけられ、絶句した。
「お、おい、いきなり何なんだ。まだ三月だぞ、水が冷たいというに」
「ふふ、やっぱり引っかかりましたのね」
 陸(おか)に上がったばかりの犬のように勢いよくぶるぶると首を振った頼嗣から水飛沫(みずしぶき)が飛ぶ。千草がおかしくて堪らぬと言いたげに声を上げて笑っていた。
「それにしても、よくぞ何度も同じ手で引っかかられますこと。これでもう数えて―」
 わざとらしく彼の前で、千草は両手を突き出し、
「ひい、ふう、みい」
 と数えて見せるのも憎らしい。千草は十まで数えたところで破顔した。
「両手指では足りませぬ」
「何と憎らしい人だ。その歳になっても、童の頃と変わらず悪態ばかりついておるとは」
 頼嗣は呆れたように肩を竦めてやった。
「そのようなお転婆では、嫁に貰うてくれる男なぞおらぬであろうに」
 と、千草が頬を思いきり膨らませた。おかしな娘だと、頼嗣はいつもながら思わずにはいられない。見かけは鎌倉どころか京の都中探しても見つからないほどの美少女なのに、やることなすことと言ったら、まるで五歳のときのままだ。
 千草は頼嗣を軽く睨みつけた。
「あら、私にだって、ちゃんと縁談くらいは来ておりますのよ」
「真なのか? 大方は悔し紛れの戯れ言であろう」
 まるで子どものようにあかんべぇをして見せるのに、頼嗣は思わず吹き出してしまった。
「さあ、どうだかな」
 頼嗣は信じられないという風に両手をひろげて首を振る。千草の白い頬が朱に染まった。この場合、恥じらっているわけではなく、怒っているのだ。
「信じられぬのなら、私の父か母にお聞き下されば良いのです。執権さまのご親戚筋に当たる方との縁組みが今、進んでおります」
「本当なのか!?」
 頼嗣は?執権?というその二文字に敏感に反応した。
「真、北条の縁戚との縁談話が進んでおるのか?」
「はい」
 千草は澄ました表情で頷く。
 頼嗣は自分でも愕くほど動揺してしまい、つい大きな声で叫んだ。
「そなたはそれで平気なのかっ」
「―」
 千草の大きな瞳が一杯に見開かれる。
「そなたはそれで良いのか、父母の言いつけに従って他の男に許に嫁いだとて平気なのか?」
「おっしゃる意味がよく判りません」
 千草が先刻までの勢いは嘘のように、おどおどと眼を伏せる。頼嗣は唇を噛み、千草に近づいた。
 過ぐる日、そう、あれは八年前の初夏の日のこと。頼嗣がまだ元服前の童水干姿であった頃、千草と小御所の庭で共に遊んだことがある。二人はいつもどこに行くのも一緒だった。庭の睡蓮の池は日照り続きで、水がかなり少なくなっていて、子どもでも入って危なげなく遊べる深さだったのだ。
 そこで、千草が言い出した。
―私が雨乞いをして差し上げます。
 光の中で軽やかに舞っていた千草の姿が今でも鮮やかに瞼に灼きつけられている。水の少ない汀や日照りにもめげずに凜として咲く濃紫の菖蒲のようであった。
 その後、頼嗣は言ったのだ。
―それでは、褒美には何が欲しい? そなたが見事に雨を降らせてくれたなら、私は千草の望みを何でも一つ叶えよう。
 千草は少し考えた末、思いもかけぬことを言い、頼嗣を困惑させた。
―それならば、私を千手丸さまのお嫁さまにお迎え下さいませ。私は大きうなったら、千手の君の妻になりとうございます。
 真っすぐに見つめてきた千草の瞳は煌めいていて、眩しいほどだった。言われた千手丸の方が真っ赤になったほどだ。
―わ、判った。武士に二言はない。見事、そなたの雨乞いで雨が降ったなら、必ずや妻に迎えてやる。
 幼い者同士の他愛ない約束のはずだった。しかし、頼嗣自身はあのときに交わした言葉を忘れたことはなかった。その後、頼嗣の元服、将軍継承と続き、二人はそれまでのように頻繁に逢うことはできなくなったけれど、それでも、頼嗣は煩い側近の眼を出し抜いては御所を抜け出し、千草と遊ぶことを止めようとはしなかった。
 千草の実家河越家に行くときもあったが、いちばんのお気に入りの場所はここ由比ヶ浜だった。二人がいちばんよく遊んだ懐かしい場所といえば、間違いなくこの浜辺に違いない。
 千草はその後、二度と五歳の日の約束を持ち出すことはないままに日は過ぎた。今や頼嗣も千草も十三歳になった。二人ともに結婚適齢期に入っており、現に頼嗣には時の執権経時の妹との縁組が随分前から浮上している。が、頼嗣自身がその話を断り続けているせいで、縁談は遅々として進んではいない。
 千草がふいにうつむいた。いつもの元気はどこへやら、消え入るような声音で言う。
「頼嗣さま、私たちはもう今までのように逢わない方がよろしいのではございませんか。私たちがひそかに逢っていることを執権どのはご不快に思われているとか」
 頼嗣は唾棄するように言った。
「執権の思惑など気にすることはない」
 千草はゆるりと首を振った。
「そういうわけには参りませぬ。先日、河越の父からも言われたのです。御所さまとお逢いするのは次が最後とせよと」
「馬鹿な!」
 頼嗣が怒鳴った。いつもは声など荒げたことのない頼嗣の怒声に、千草がピクリと身を震わせた。頼嗣はハッと我に返った。
「済まぬ、大きな声を出してしまった。真に康英がそのようなことをそなたに申したのか?」
 千草は頷いた。
「頼嗣さまには以前から執権どのの妹君とのご縁談が進んでおります。その姫君さまを差し置いて、私がお側にいることが執権どのには目障りなのでしょう」
 頼嗣は唸った。
「なるほど、読めた。それゆえ、執権はそなたを縁戚の男にさっさと娶せてしまおうと考えておるのだな」
 千草は淡々と続けた。
「お相手の方は執権どのの奥方さまの甥だとか。父もここらで北条と手を結ぶのも悪くはないかと乗り気なのです」