華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
義高の上を流れる刻は彼が十一歳で永遠に止まったのだ。これはきっと大姫
が義高に逢いたいと切望しすぎたがために、神仏が哀れんで見せて下さった束
の間の夢にすぎないのだろう。
だから、大姫も義高に何も訊かず、ただ夢中で喋った。話すことが尽きた後
は、二人で昔のように散り敷いた花びらを集めた。ピンク色の花びらをひとひ
ら、ひとひらずつ掬っては義高に渡し、義高が針で花びらに穴をあけて慎重に
糸に通してゆく。
夢だと判っているのに、真剣な表情で穴を開ける彼の顔がおかしくて、大姫
は笑ってしまった。
うふふ、うふふ。
いつになく気分が良くて、気持ちが高揚している。こんなにも屈託なく笑い
声を上げたのは何年ぶりだろうか。
きと義高がこの世からいなくなってから、ずっと笑うことも忘れていた。
そして、その時、ふと気づいた。
十二年前に時間が止まったのは義高だけではないことを。恐らく大姫自身の
時間の流れも大好きな男の時間と一緒に止まってしまったのだ。現身(うつし
み)がこの世にとどまっている自分は刻の流れと共に身体は子どもから大人へ
と成長した。けれど、その魂はずっと十二年前のまま、刻を止めたままなの
だ。
大姫が拾い上げた花びらを義高に渡し、義高が花びらを糸に通す―その作業
を二人は延々と続けた。時折、義高が大姫の顔を見、まなざしが降り注ぐ春の
穏やかな陽射しの中で混じり合う。
二人はそっと微笑み交わし、またもとのように黙々と花びらを拾っては糸に
通してゆくのだった。
やがて、一つの花冠ができあがった。義高の手に美しい花の冠が乗ってい
る。彼はその花冠を持ち上げて見せた。
「いつかの約束を憶えていますか?」
「もちろん、憶えているわ」
大姫もすかさず応えた。
「一緒に行きましょう」
義高の言葉に、大姫の眼に新たな涙が湧き出した。
ああ、私はずっとこの言葉を待っていたんだわ。
あなたがたった一人で逝った十三年前から、私はあなたを待ち続けていた。
あなたが私を迎えにきて、あの幼い約束を守ってくれるのを心待ちにしていた
の。
「どこへ行くのですか?」
義高がとても優しい笑みを浮かべる。
「ここではないどこかへ」
私がいなくなれば、きっとお父さまもお母さまも哀しまれるだろう。けれ
ど、私がいなくなっても、まだ後には三人の弟妹たちがいる。帝の許には妹が
入内することになるだろう。
今、この方についてゆかなければ、私は一生涯後悔することになる。このま
ま肉体はこの世にあっても、魂だけはあの世に置いてきぼりにしたような―そ
んな空しい日々を重ねて、いつ果てるか知れない無為の生涯を送ることになる
だろう。
大姫は義高を見上げて、そっと頷いた。
―もう、あなたなしで生きていくのはいや―
口には出さなかったけれど、義高は正しく理解してくれた。義高ができあが
ったばかりの花冠を頭に乗せてくれた。
あの日のように口づけがそっと降りてくる。ただ一つだけ違うのは、彼の唇
が落ちたのが額ではなく私の唇だったということだけ。
大きな手が差し出された。判っている。この手を取れば、私は二度と後戻り
はできない。
それでも良いの、私はこの方と、義高さまとめぐり逢った十四年前から、こ
の恋に生きると誓ったのだから。
躊躇いがちに彼の手を取る。
一陣の風が私たちの側を駆け抜け、八重の桜がざわざわと梢を鳴らす。まる
で心の奥底までを揺さぶるような音。
突風に巻き上げられた花びらが雪のように一斉に舞い、私たちの上に降って
くる。
私たちは舞い狂う桜吹雪の中で、一瞬、見つめ合った。
―本当に良いんだね。後悔はないのかい。
彼の瞳が問いかけてくる。
―もちろんよ、後悔なんかしないわ。私はあなたが逝ってから、ずっとこの日
を待っていたんだもの。
私も瞳にありったけの想いを込める。
義高さまの漆黒の瞳を見上げた途端、逞しい手に引き寄せられた。
抱き寄せられるままに、大姫は彼の胸に甘えて身をすり寄せた。
ふわりと身体が軽くなる。
―ずっと、こうしたかった。
花嫁衣装も何もない。でも、二人の約束の証の花冠が私の晴れの日を飾って
くれるから、何も要らない。
かつて、私がこんなにも幸せで満ち足りたことがあっただろうが。
大姫が最期に見た光景は、十九年の生涯でいちばん幸せなものだった。
ずっと逢いたいと願っていた男の胸に抱かれ、大姫はそっと眼を閉じた。
「姫、大姫」
コトリと扉の音がした。部屋の中に満ち満ちた静けさの中で、その小さな音
が異様に響く。政子は瞬間的に異変を感じ取り、足早に娘に近づいた。
それでも、最初は眠っているのかと思った。
「大姫、眠っているのか?」
普段なら眠っている娘を起こすようなことはしないのだけれど、やはり、母
の勘というものだったのか。
政子は枕辺に座り、大姫が息をしていないのに気づいた。
「姫っ、大姫!」
政子は金切り声を上げて大姫を抱き起こした。娘の身体はまだ暖かい、なの
に、このか細い身体から既に魂は抜け出てしまった。
政子に付き従った若い侍女もまた大姫の死を悟ったらしく、その背後で息を
呑んでいる。
心利いた侍女は政子が特に指図せずとも、姫さまの御身に起こった急変を知
らせに走っていった。
「そなたは、とうとう義高どのの許に逝ってしまったのじゃな」
政子の眼から、ひと粒の涙がこぼれ頬を流れ落ちた。息絶えた娘は政子の腕
の中で、まるで嫁ぐ日を迎えた花嫁のように幸せそうな安らいだ表情を浮かべ
ていた。
思えば義高が亡くなってから、大姫はいつも沈んだ顔ばかりしていた。こん
なに晴れやかな顔をしていたのを見たことがない。
「意に沿わぬ入内よりも、そなたにはこの方が良かったのやもしれぬな」
思わず本音が呟きとなって洩れ落ちた。
部屋の向こう―廊下の方で人声が俄に騒がしくなった。異変を知らせに行っ
た侍女が戻ってきたらしい。複数の慌ただしい足音に重なり、頼朝の声が背後
で聞こえた。
「―姫、許してくれ」
普段は滅多と取り乱すことのない良人の声が戦慄いている。?鎌倉どの?と
して幕府の御家人の上に立つ良人も今はただ一人の父親であるに相違ない。
先刻からそのままになっていたものか、小窓が細く開いている。わずかに切
り取られた夜空に月明かりを浴びて煌々と輝く薄紅色の桜花と丸い月の螺鈿細
工のような光景が垣間見えた。
(了)
華随想?
勢いで短いものを書いてみました。
とはいっても、このお話は前から書こうと予定には入っていたものです。
以前もお話したかもしれませんが、鎌倉時代の義高と大姫の話を書いたの
が、私が物語りらしきものを書いた最初でした。
当時、小学校六年生です。史実でありながら、物語よりも印象的な大姫の悲
恋物語が当時の私の心を揺さぶりました。
意外にもいちばん最初に書いた物語でありながら、今までちゃんとした形で
書いたことはありませんでした。今回、本当に初めて小説として形になりまし
た。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ