華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
がこの世で良人と呼ぶひとはただ一人、義高だけなのだ。
恐らく母の言い分は間違ってはいない。父頼朝が一人の父親である前に、将
軍であるべきなのは判っていた。十三年前はまだ幼すぎて理解できなかった周
囲の状況も今であれば理解はできる。
父は義高を生かしておくことはできなかった。けれど、理性で理解はできて
も、心では納得できない。何故なのか、何故、義高が死ななければならなかっ
たのか。この世でたった一人の方と思い定めた方を私は理不尽にも奪われたの
か。
最後に見た義高の笑顔を今もありありと思い出すことができる。あの時、頼
朝が義高を殺すつもりだと知った政子は義高に女のなりをさせて従者とともに
落ち延びさせた。
しかし、義高は運つたなく途中で追っ手に捕まり、斬首された。まだ十二歳
だった。
―姫、良い子で私の帰りを待っていて下さいね。
自分の危うい立場を悟ってか、妙に大人びた少年だった義高。優しくて笑顔
を絶やさず、利発な子どもだった。
義高さま、私はあのときの約束どおり、ずっとあなたさまを待ち続けてきま
した。
待って待って、ひたすら待ち続けて、けして帰ってはこぬ人をそれでも待っ
た。
ですが、私、いささか待ちくたびれました。
大姫は軽い疲れを憶え、眼を閉じた。母が良かれと思い、入内の話をしたの
も判っている。けれど、それが煩わしくて、つい投げやりな態度を取ってしま
い、ついには眠ったふりまでしてしまった。あのときは眠気なんて感じなかっ
たのに、やはり疲れたのだろうか。
気がつけば、大姫は満開の桜の樹の下にいた。綺麗な赤い小袖が土で汚れる
のもいとわず、ぺたりと地面に座り込んで夢中で桜の花びらを拾い集めてい
る。
まるで、もう一人の自分を見つめているような妙な気持ちで、大姫は幼き日
の自分を見つめていた。
そう、あれは六歳の頃の私。義高さまと知り合って一年ほど経った春の昼下
がり、お庭で遊んでいた。いちばん幸せだった時代だ。
うふふ、うふふ。
いかにも嬉しくて堪らないといった少女の無邪気な笑い声が聞こえる。
地面は桜色の花びらで埋め尽くされ、幾ら拾い集めても尽きることはない。
幼い大姫の向かい側でも一人の少年が楽しげに花びらを集めている。
「姫、これだけ集めれば良いのではありませんか?」
ああ、義高さま。
幼い自分を見つめる十九歳の大姫が思わず声を上げる。しかし、夢の中では
愛しい男への呼び声が届くはずもない。
十一歳の義高は利発そうな黒い瞳をきらきらさせて大姫を見つめていた。
「あら、まだまだよ、義高さま。まだ足りないわ」
六歳の大姫が頬を膨らませる。義高は困ったように眉根を寄せた。
「そんなに花びらばかり集めて、何をするの」
と、幼い大姫が悪戯っぽい表情で義高を見上げた。
「知りたい?」
「うん、知りたい」
そこで、大姫はこまゃしゃくれた様子で義高に近づき、耳元で何やら囁い
た。途端、義高の顔が赤くなった。
「ね? 義高さまと姫の祝言の時、花嫁衣装に合わせる花冠を作るには、たく
さん花びらが要るでしょ?」
あの頃から、大姫は自分は絶対に義高の花嫁になるのだと固く信じ込んでい
た。
義高は真っ赤になったまま、硬直している。その様子に大姫は哀しくなっ
た。
俄に自信のなさげな顔で、哀しげに義高を見つめる。
「義高さまは姫のことがお嫌い?」
刹那、大きな声が響き渡って、大姫は飛び上がった。
「まさか!」
言ってしまった後で、義高自身、恥ずかしいのか更に頬を赤らめた。
「ごめん、大きな声を出してしまって。でも、私が姫のことを嫌いだなんて言
うものだから」
「じゃあ、好きなの?」
勢い込んで訊ねる大姫に、義高は赤い顔のまま、コクコクと頷いた。子ども
でも武士として育てられた彼にしてみれば、それが精一杯の返事であったのだ
ろう。
幼いとは無邪気であり、残酷なものだ。まだ子ども過ぎた自分は義高のこと
など考えず、一方的にその気持ちを押しつけるばかりだった。
「本当に本当に?」
なおも訊ねる大姫に、義高が近づいた。義高の端正な面が迫ってくる。
やがて額にそっと落とされたのは触れるか触れないかほどのきわどさの一瞬
の口づけ。
「これが約束の証です」
「じゃあ、私も」
義高と大姫では背が違いすぎる。伸び上がっても、まだ足りない。それで
も、義高はすぐに理解して、しゃがみこんでくれた。大姫は精一杯背伸びし
て、義高の頬にそっと口づけた。
今から思えば、ませた子どもであり、また、無邪気な子ども同士の他愛ない
約束事であった。けれど、大人から見れば他愛ないものであっても、幼い当の
二人には真剣そのものの約束であった。
「義高さま、忘れないでね。大きくなったら、必ず私をお嫁さんにして下さい
ませ」
満開の桜の下で絡めた指と指、まなざしで交わした約束、それが大姫の生き
る証になった。
だが、その約束が果たされることは永遠になかった。
ふっと視界が暗転した。まるで母政子が御所に招いた旅芝居の一座を見たと
きのようだ。芝居から芝居への途中、舞台が変わる、そんな感じで大姫の周囲
の風景が変わった。
ふいに光の洪水が押し寄せた気がして、あまりの眩しさに大姫は眼を閉じ
た。
「―姫、姫」
誰かが呼んでいる。懐かしい声、聞いたこがあるようで、ないような。
大姫はゆっくりと眼を開いた。その瞬間、あまりの愕きに言葉を失ってしま
った。
「義高さま?」
今、大姫が座っているのは見覚えのない場所だった。御所の庭に似ているけ
れど、違う。第一、御所の庭の桜は普通のひとえだけれど、この桜は八重桜
だ。
花弁のたくさん集まった花で、色も見慣れた御所の花よりもっと濃いピンク
に染まっている。清楚なひとえの花よりも妖艶で愛らしい雰囲気の八重桜が
今、満開で二人を見下ろしている。
大姫はそこでハッとして、頬を赤らめた。大姫は散り敷いた桜の褥の上に横
座りになり、義高がその膝に頭を乗せている。しかも、どう見ても義高は大姫
が記憶している少年ではない。印象的な黒瞳はそのままに、見事に成人した青
年となっていた。その凛々しい若者の姿となった彼に真下から熱っぽく見つめ
られ、どうしても頬が熱くなる。
「久しぶりだね」
ああ、義高さま、お逢いしたかった。
大姫の胸に熱いものがこみ上げる。涙の固まりが喉につかえ、言葉にならな
い。
大姫は両手をひろげた義高の胸に迷わず飛び込んだ。
義高は最早、十一歳の子どもではなかった。逞しい男の胸に抱かれ、大姫は
泣きじゃくった。義高は大姫が泣き止むまで辛抱強く待ってくれ、今度はまた
先刻のように大姫の膝枕で横になった。
二人は様々なことを話した。逢わなかった年月の間に起きたこと、流れた時
間。だが、喋ったのは専ら、大姫だけで義高はただ優しく微笑んで大姫の話に
耳を傾けているだけだ。
そう、義高さまは本当はこの世の方ではないのだもの。それは大姫にも判っ
ていた。十一歳の義高がそのまま健やかに成人していれば、確かにこのように
姿になったかもしれない。だが、それは所詮幻影にすぎない。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ