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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 わずか六歳の童女がよもやそこまで義高を恋い慕っているとは流石に考えは
及ばなかった。確かに義高を兄のように慕い、彼の後をついて回っていた大姫
だったが、それは所詮、一時のものだと誰もが思っていた。
 その幼い恋が一生涯を賭けての本気の恋、姫にとってはただ一度きりの恋で
あったと知ったのは義高がいなくなった後のことであった。
 今も政子は悔やまれてならない。可愛い娘がそこまで恋うているのならば、
何故、我が身を挺しても義高を庇わなかったのか? だが、義高は既にこの世
の人ではないのだ。そのときの政子はもし死人の魂をこの世に呼び戻せる手立
てがあれば、どのような大枚をはたいてでも呼び戻しただろう。
 政子は義高が持っていった大姫の魂を呼び戻すために、あらゆることを試み
た。面白いと評判の旅芝居の一座がいると聞けば。わざわざ呼び寄せて御所の
庭で芝居を披露させたりもした。病に霊験あらたかな社があると聞けば、姫を
連れて遠路はるばる訪れた。
 だが、何をしても大姫に笑顔は戻らず、年を追うごとに姫の身体は弱ってい
く一方にすぎなかった。
 もちろん、高名な医者にも診せた。高価な薬も取り寄せた。しかし、医者は
一様に
―姫さまのお身体というよりは、お心が弱っておいでなのです。
 と沈痛な面持ちで述べた。
 ある医者ははっきりと述べた。姫には生きる意思そのものがないのだ、と。
 その時、政子はやはり、と思った。
 大姫の魂を義高が連れていったのだ―。
 頼朝はまた別の形で娘を元気づけようとした。それが即ち、時の帝への入内
であったというわけだ。しかし、他の男へ嫁がせるという選択肢は大姫の魂
(こころ)を余計に疲弊させただけであった。
 最初は入内を頑なに拒んでいた姫はやがて何も言わなくなり、静かな諦めの
中にそれを受け入れたかに見えた。そう、あくまでも受け入れたように見えた
だけで、内実、義高以外の男に嫁ぐ気は姫には毛頭なかったのだ。
―義高さま以外のお方に嫁げというのなら、私は死んだ方がマシでございま
す。
 語気鋭く言い放ったときの覚悟そのままに、大姫は自らの心を完全に内に閉
じ込めた。
 ただ生きるために必要最低限の食事と水だけを取り、生命を辛うじて繋ぐだ
けの日々を過ごすようになった。頼朝が娘のために良かれと思った入内は結
局、姫のそれでなくてもすり減った魂と寿命を余計に削ることになっただけだ
った。
 が、頼朝は父としての情だけで生きるわけにはゆかなかった。鎌倉幕府初代
将軍として、いまだ安定しきったとはいえない幕府の礎を確固たるものにする
必要があった。そのためにも皇室と縁を結ぶのは必要なことだったのだ。
 政子はまた大姫には判らぬようにため息をついた。
 止そう、今は幾ら過去を振り返っても意味はない。大切なのは逝こうとして
いる姫の魂をこの現世(うつしよ)に繋ぎ止めることのみ。
 政子はわざと声を明るいものにした。
「庭の桜も今が盛りじゃ。明日は天気も良さそうゆえ、少し庭に出て花でも眺
めましょう」
 返事はない。政子がなおも口を開こうとしたその時、消え入るような声がし
じまに響いた。
「花を見たとて、何になりましょう」
 背を向けて布団に横たわっている大姫に、政子はほほえみかけた。
「美しきものを眺めれば、心が華やぐ。楽しうはならぬか」
「幾ら美しき景色を見ても、私には灰色の世界がひろがるばかりにございま
す」
 愛しい方と共に眺めるのでなければ、何を見ても色褪せたものにしか見えぬ
―と、恐らくは姫は言いたいのだ。
 政子は今度は大きな息を吐いた。
「姫、この世におらぬ人をいつまでも想うたとて、益のないことと何故、判ら
ぬか? そなたの哀しみも憤りも判らぬわけではない。されど、月日は流れた
のじゃ。そなたももう童ではない。この世に存在せぬものを幾ら欲しいと願う
たとて手に入らぬのは判っておろう」
 と、大姫がくるりとこちらを向いた。
「義高さまは亡くなったのではありません、殺されたのです、父上さまに」
 弱っている娘の声とは思えないほど激したものだった。政子はついぞ聞かな
かった娘の烈しい声に、眼を見開いた。
「同じことではないか。いずれにせよ、義高どのがこの世の人ではないことに
変わりはない。更に、殿だとて何も義高どのを殺しとうて殺したわけではな
い。将軍という立場をもってすれば、情を殺して成すべきことを成さねばなら
ぬときもある。殿もまたお苦しいのだぞ、そなたには、お父さまの苦衷が判ら
ぬか?」
 今度はまた返事はなかった。
「そうそう、新しく仕上がって参った屏風が殊の外見事でのう、三幡が見たい
としきりにせがむのじゃが、肝心のそなたがまだ見ておらぬというに、妹に先
に見せるわにはゆかぬと宥めておるところよ」
 「源氏物語」を描いた屏風絵だけでなく、昨日、更に「万葉集」の名歌と美しい
絵が描かれた屏風が都から届いた。もちろん、大姫の入内のために頼朝が特に
作らせたものだ。それを十一歳になる妹の三幡姫が見たいと駄々をこねてい
る。
 大姫がどこか投げやりな調子で言った。
「そんなに見たいのなら、三幡に見せてやれば良いではありませんか。私なら
構いませぬ」
 言外にそのようなものは見たいとも思わないと言わんばかりの物言いに、政
子は眉をひそめた。
「折角、お父さまがお作り下されたものを」
「私には心に決めた方がおるのです。いっそのこと、三幡を入内させればよろ
しいではありせんか」
 三幡姫はまだいとけない年頃で、恋を知らない。いわば絵物語を読み耽り、
物語の中の貴公子と姫君の情熱的な恋に憧れる年頃であった。
「私などのようにいわくのある女より、純真無垢で恋に憧れる妹の方がよほど
帝の后にはふさわしいでしょうに」
 自棄のように呟く娘に、政子はそれ以上、取り合わず、優しい口調に戻っ
た。
「このようにいつまでも閉じこもっておるゆえ、病気にもなるのよ。病は気か
らと申すゆえな、少し外に出てみてはどうじゃ」
 入内の支度のきらびやかさなど話して少しでも姫の気を引き立てようと、わ
ざと話してみたのだが、やはり逆効果だったようである。
 しばらく黙って座っていても、もう大姫は喋らなかった。さては話に疲れて
寝入ったのかと、政子は涙を堪えて立ち上がった。
 部屋を横切り、廊下に出て戸を静かに閉める。
 墨を溶き流したような黒々とした夜陰に、薄紅色の桜花たちがほの白く浮か
び上がっている。たっぷりと花をつけた枝の向こうに見えるのは黄金のふっく
らとした月だ。花はやや盛りを過ぎた頃で、時折、風もないのに、はらはらと
桜貝のような花片が宵闇を舞っている。
 政子はいつまでも飽きることなく、その禍々しいほど美しい桜を眺めてい
た。

 今宵、何度目のため息だろうか。大姫もまた床の中で人知れず吐息をついて
いた。この世に生まれ落ちてから十九年、それを長いとと見るか短いと感じる
かは判らない。けれど、我が身の人生は考えれば、涙とため息だけで出来てい
たようなものだと今更ながらに思う大姫だった。
 どれだけ恋しく思えども、我が君はもうこの世にはおられない。そう、大姫