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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 瑶子の言うとおりで、さほど遠くない場所にみすぼらしい小屋があった。見たところ人の気配はないが、暮らしている形跡はある。漁師がたまに利用するのだろうか。
 とにかく今は瑶子を何とかしてやらなければならない。かなり濡れてしまったので、ややむなく小袖を脱がせて裸のまま布団にくるんだ。幸い、ここの家(や)の主(あるじ)が使っている粗末な夜具があり、それを借りた。
 その合間に、瑶子が俄に苦しみ始めた。
「痛い、痛ったい―」
 腹部を押さえて痛みを訴えるので、お腹の子に何かあったのではと頼経は気が気ではない。
「大丈夫か? 何がどうなってるんだ?」
 懸命に痛みに耐える妻を覗き込んで言えば、瑶子がかすかに眼を開いた。
「恐らく出産が始まったのだと思います」
 頼経は脳天を思いきり殴られたような気がした。
「どうする? 雨が止めば、そなたを御所まで連れて戻れるが、この雨では到底戻れぬ」
 頼経は小屋の東についている小さな明かり取りの窓越しに外を眺めた。天は何かの怒りを示すかのようにどす黒く染まり、烈しい風雨が吹きつけている。時折、雷さえ鳴っていた。
 瑶子が何か言っている。頼経は慌てて側に戻った。
「ここで生むしかありません」
 頼経が首を振った。
「無理であろう。そなたは初産で、子を産んだことはないのだぞ。私も男だから、こういうことはまったく心得がない。私たちだけで生むのは無理だ」
 と、瑶子がカッと眼を見開いた。頼経に向けて差し出された手を彼は咄嗟に握りしめた。瑶子は陣痛に苦しんでいるとは思えない力強い声で言った。
「それでも、生まなければなりません。御所さま、できなくても、しなくてはいけないのです。この子の誕生を多くの御家人が待ちわびております。ですから、何としてでも無事に生んで見せます。だから、御所さまも協力して下さいませ」
 それは既に少女の顔ではなく、紛れもない?母?の顔であった。
 妻の強い意思が伝わってきて、頼経は幾度も頷いた。
「あい判った。私は何をしたら良い?」
 訊ねられ、瑶子が笑った。
「私も初めてだから、判りません」
「おいおい」
 ひっきりなしに強い痛みが遅うのか、瑶子は本当に苦しそうだ。だが、痛みと闘いながらも頼経を心配させまいと笑っていた。
 強い女だと改めて思った。
「あ、でも、嫁いだ姉たちが里帰りして出産するのを見ました」
 瑶子が頼経を見た。
「お湯をたくさん沸かして下さい」
「たくさんとは、どれくらいだ」
「たくさんです」
「―」
 頼経が絶句する。
「あと、乾いた清潔な布も」
「そんなものがあるのか?」
 頼経はまたまた頭を抱えた。しかし、それ以降は瑶子は会話することもままならなくなった。それほど酷い痛みが彼女を襲い始めたのである。
 頼経は産みの苦しみに喘ぐ妻の傍らで気が気ではなかったが、とにかく言われたとおりに囲炉裏に火を熾し、小屋の片隅に積まれていた薪をくべて鍋に湯を沸かした。それを繰り返す合間には家中を探し回り、置いてあった衣類を引っ張り出した。
 どこの誰とも知れぬ他人の家を漁り回り、なおかつ勝手に衣類を借用するとは言語道断ではあるが、この際、そこは眼を瞑るしかない。無事に出産が終われば、改めて家の住人には礼をすれば良かろう。
「うっ、うう、うー」
 瑶子の苦しみ様は更にひどくなっている。このまま死んでしまうのではないかと頼経は暗澹とした気持ちで妻を眺めた。こんな時、男はただ見守るしかないのがもどかしく口惜しい。
 一度、窓から覗いた外は依然として烈しい風雨が吹き荒れていた。これでは御所に戻るどころではない。菊乃に行く先を告げずに出てきたことが今更ながらに悔やまれた。もし由比ヶ浜へ行くのだと告げていれば、いつまでも帰らない将軍夫妻を案じて迎えが来たかもしれないのに。
 狭い室内に立ちこめる静寂が重くのしかかってくるようだ。
「痛い、痛」
 瑶子が泣いている。頼経は飛んでいった。
「大丈夫か、腹が痛むのか」
 泣きながら腰が痛むというので、背後から抱きかかえるようにして腰をさすってやる。
 その時、瑶子の足許を大量の水が濡らしているのに気づき、頼経は驚愕した。
「何だ? 何か出ているぞ」
「出血していますか?」
「いや、血ではない。水のように見えるが」
 瑶子が荒い息を吐きながら言った。
「それなら大丈夫です、御所さま、もうじき生まれると思いますので」
 それからも頼経は痛みに耐える瑶子の腰をさすり続けた。
 それから数時間は経ったはずだ。あれだけ心配していたはずなのに、迂闊にも頼経は眠ってしまったようだ。瑶子の絶叫で目覚め、頼経は飛び起きた。
「瑶子、何があった!」
「御所さま、赤児が生まれます、取り上げて下さいませ」
「無茶を申すな、私にはできぬ」
「御所さましか頼る方はないのです。私とあなたさまの子です。抱いてやって下さい」
 頼経は唇を噛むと、瑶子の足許に回った。少し開いただけの両脚を大きく開かせる。頼経は眼を見開いた。既に赤児の頭らしいものが覗いていた。
 それから何度か息んだ後、赤ン坊がするりと出てきた。頼経は震える手で小さな血まみれのその赤児を抱き上げた。
「う、生まれた。生まれたぞ」
 頼経の眼からはらはらと涙がこぼれ落ちた。夜明けが近いらしく、静寂が極まっている。その静謐さを破り、元気な赤児の泣き声が響き渡った。最初の子は産声を上げることなく逝った。頼経が父として初めて耳にした我が子の泣き声だ。
「よくやってくれた」
 彼は生まれたての赤児を用意していた布でくるみ、瑶子に見せてやった。瑶子の顔は疲れ果てていたが、その顔には力強い生命の輝きがあった。
「御所さま、お顔に血がついています」
 お産の介添えをしている最中に付いたのだろう。頼経は笑い飛ばした。
「歴代の中でも、妻の出産に立ち会い、なおかつ我が子を取り上げた将軍など、そうそうおらぬであろうよ、これはその栄誉の勲章だ」
 明かり取りの窓からひとすじの光が差し込んだ。長い夜が明けたのだ。黎明の光が今、瑶子とその傍らに眠る赤児の顔に指していた。
 この赤児が後に五代将軍となる頼嗣である。頼嗣の乳母には御家人河越康英の妻菊乃が任じられた。菊乃が生後半年になる赤児を持ち、乳も豊かに出ることと、御台所瑶子の信頼も厚いことが抜擢の理由である。
 後に河越一族は将軍世嗣の乳母とその良人ということで、絶大な権力を持ち幕府内でも北条得宗家と拮抗するほどの影響力を持つに至った。
 頼経は妻と子が落ち着いたのを見計らってから、外に出た。今、今日という新しい一日の始まりを告げる太陽が水平線の彼方から上り始めていた。
 一晩中荒れ狂った嵐は嘘のように止み、今は鎌倉の海も空も穏やかな佇まいを見せている。
 明けない夜はなく、長い冬もいつかは終わる。今この瞬間、頼経の長らく止まっていた周囲の刻が漸く動き出したのだ。
 そして彼に生きる歓びと哀しみを教えたのは彼が生涯をかけて愛した二人の女たちであった。
 東の空を眩しい日輪が茜色に染めながら昇ってゆく。頼経は由比ヶ浜に立ち、新たに刻を刻み始めた新しい人生の始まりの一日を噛みしめていた。