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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 掘っ立て小屋と形容するにふさわしいみすぼらしさだが、煙が上がっているところを見れば、誰かが棲まいしているのは確かだ。興味を引かれて近づいてゆくと、いきなり小屋の戸が開いた。あまりのことに、瑶子はキャッと悲鳴を上げてしまった。
 現れたのは初老の男であった。髪にはかなり白いものが混じっているけれど、膚には張りがあり、老人とは呼べない。目鼻立ちはかなり整っており、若い頃はさぞかし女の熱い視線を集めたであろうことを彷彿とさせた。
「珍しいこともあるものだ、かようなところにうら若き美しき娘がやって来るとは」
 声にも深みと張りがある。
「あなたはここに住んでいるのですか?」
 直截に問えば、男は声を立てて笑った。
「なかなか恐れ知らずのお嬢さんだ。それでは、お応えしましょう。まあ、俺はここに住んでいるともいえるし、住んでいないとも言えますがね」
 謎かけのような言葉に、瑶子は眉を寄せた。それとも、世間知らずの小娘だと馬鹿にされている? 瑶子の心中を見透かしたかのように、男は破顔した。
「別にあなたを侮っているわけではないですよ。俺は都に住んでいるのですが、たまにこうしてここへ戻ってきます。鎌倉は私にとっては故郷のようなものなのでね」
「そう―なのですか?」
 応えようがないので、相槌を打った。初老の男はまた笑った。
「若い頃には鎌倉にも住んでおりましたよ。ここは良きところだ。眺めも良いし、何より海が近い。俺は鎌倉で女房と出逢って所帯を持ちましてね。新婚時代を過ごしたのがここでした。だから、一年ほど前にここに似たような家をまた建てたんです。数年前に、その長年連れ添った女房にも先立たれました。二人の娘たちもとうに嫁に出して、人並に孫にも恵まれた、お陰で安気な余生を送らせて貰っています。そういうわけで、たまに思い出して懐かしくなると、ここに帰ってくるんですよ」
 男は浜辺に出てくると、うーんと伸びをした。
「女房が鎌倉の女でねえ、何かここに来ると、あいつに逢えるような気がして」
「亡くなられた奥さまを愛していらっしゃったのですね」
 瑶子は心から言った。男は年齢に似合わぬ若々しく人懐こい笑みを見せた。
「どうしようもないほどにね。あいつを追いかけて黄泉路まで行きたいものだが、どうやら、天はまだ俺に死ぬとは言わないらしくて、なかなか死ねやしません。俺は子どもの頃、一度海で溺れて死にかけてねえ。何の因果か、助かった死に損ないですよ。マ、こんな人間だが、それなりに意味があったんでしょうな。生き存えたお陰で、女房にも出逢えました。寿命が尽きるまではしぶとく生きるしかないでしょうな」
「そんなに大切に思われて、奥さまは幸せだわ」
 素直な言葉に、男が眼を細めた。
「夫婦なんて、そんなものだ。馴れ初めがどうあろうと、連れ添う中に情が湧いてくるもんなんですよ。あんたは幾つで?」
「十七です」
 男が笑った。
「まだまだ若いな。俺の孫よりも若い。これから先、人生色々あるでしょうが、その明るさや素直さを忘れんようにしなされ。きっと良きことがありましょう」
 男はまた両手をひろげて伸びをしながら空を仰いだ。
「またこれから都に帰ります。気が向いたら鎌倉に来ますよ。俺は娘さんと違って老い先は短いが、この世でのお勤めを終えて女房に逢うのが今は愉しみで仕方なくてねえ。あいつがいなくなってから、色々とあいつに教えてやらにゃいかんことがありましたから」
 男はまた晴れやかな笑顔を浮かべた。
「どうか道中、お気を付けて」
「ありがとう」
 瑶子の言葉に、男は人懐っこい笑みで応え、また小屋の中に戻っていった。
老人と別れ、瑶子はまた元来た道を引き返した。
―どうしようもないほどにね。あいつを追いかけて黄泉路まで行きたいものだ―。
 先刻の老いた男の言葉を反芻してみる。竹御所といい、あの男の妻といい、幸せな女たちばかりである。どうして自分だけが愛されないのだろうか? 
 また涙が込み上げてきた。考えている中に瑶子は我知らず海へと近づいていた。ひっきりなしに打ち寄せる波が脚を洗う。
 もう、このままどこかに消えてしまいたい。将軍家御台所として嫁いできた身は容易く実家に逃げ戻れるものではない。つまり、瑶子の行く先はどこにもないのだった。
 このまま海に消えてしまうのも悪くはないかもしれない。深く考えたわけではなかった。ただ魅入られるかのように真っ青な海へとそのまま入ってゆこうとしたその時。
 背後から手首を掴まれた。
「馬鹿者っ」
 ビクリとして振り返ると、頼経が烈しい眼で睨みつけている。
「かようなところで何をしている!」
「私―」
 瑶子は初めて我に返り、現実を認識した。
「私はここで何をしていたのですか?」
 刹那、瑶子の身体は引き寄せられ、頼経の腕に抱きしめられていた。
「そなたは今、自ら海に入ろうとしていたのだぞ」
 瑶子は改めて周囲を見回した。見渡す限りの蒼い海、その中に自分は立っている。水の深さは脹ら脛まで達している。このまま数歩進めば、波に攫われ海中に没していただろう。想像しただけでゾッとした。
 頼経の切迫した声が降ってくる。
「何ゆえ、我が生命を粗末にしようとするのだ?」
「―」
 また涙が溢れた。その涙を見て、頼経の眼も傷ついたような光を帯びた。
「確かに私はそなたにとって良き良人ではない。だが、何も死ぬことはなかろう。死ねば、すべては終わりだ。そこから先、生まれるものは何もない。それ以上不幸にもならない代わりに、幸福になることもない」
 瑶子は泣きながら頼経を見上げた。
「私は御所さまの、頼経さまのお子が欲しいのです」
 そのときの頼経の顔を瑶子は生涯、忘れられなかった。彼の切れ長の眼が一杯に見開かれ、その瞳がついぞ見なかったあの無限の闇を映すのを確かに見たのだ。
「子は要らぬ!」
 にべもない応えだった。頼経は怒ったようにプイとそっぽを向く。そのあまりに取りつく島もない態度に、またも瑶子は心が折れそうになった。それでも、ここで引き下がれないとばかりに問うた。
「何故でございますか? どうして、私が子を産んではいけいないのですか?」
 だが、頼経は頑なに言い張った。
「とにかく子は要らぬ。私は生涯、子を作るつもりも持つつもりもないからな」
 瑶子は涙の溜まった眼で頼経を見つめた。
「私が御所さまのお子の母では役不足だから? 竹御所さまの足許にも寄れないから? 私は御台所です。御所さまのお子を産んではいけないのですか?」
 とうとうこれまで抑えに抑えていたものが切れ、溢れた。瑶子は泣きながら訴えた。
「確かに私は美しくも賢くもありません。お子を産むためだけに迎えられた御台所です。何一つ取っても、先御台さまとは比べようもない。でも、私だって御所さまをお慕いしています。この気持ちだけは竹御所さまにも負けないと自負しています」
 頼経が茫然として言った。
「そなた、何を言って―」
「いいえ!」
 瑶子はいやいやをするように首を振った。