華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
そして、その持仏が亡くなった竹御所に似ているとは、これは誰もが語らずとも知ることだ。頼経がわざと愛妻に似せて作ったのか、それとも、彼の妻を想う心がそうさせたのか。そこまでは誰も知らない。
頼経は今、その観音像を手のひらに乗せて眺めていた。愛しげなまなざしは、けして瑶子に向けられることはないものだ。やがて頼経の手がその仏像をそっと撫でた。その時、瑶子は確かに見たのだ。頼経の精悍な面にひとすじの涙がつたうのを。
「―」
瑶子は洩れそうになった声を手で押さえた。あまりの動揺と衝撃に、手にした姫小百合が落ちたのにも気付かず、瑶子はその場から走り去った。
姫小百合が咲いている場所まで戻ると、瑶子は声を上げて泣いた。自分があまりにも惨めで哀れに思えてならなかった。
この世からいなくなっても、良人に愛され続ける妻。
すぐ側にいて、こんなにも大好きなのに良人から疎まれている妻。
そして、瑶子は後者の気の毒な女だ。
頼経と竹御所は十六歳の歳の差がありながら非常に仲睦まじい夫婦だったと今も語りぐさとなっているほどだ。その話は遠く都まで届くほどで、
―十六歳の将軍さんが三十過ぎの奥さんをえらいご寵愛しはって、まるで『源氏物語』の桐壺帝と桐壺更衣みたいに眩しいほどのご寵愛やと専らの噂やそうえ。
―何を言はわりますのやろ、十六と三十では、桐壺帝と更衣ではなく、光源氏と藤壺女御ではあらしゃりませんか? 将軍さんといえは、摂関家の九条さまのお血筋であるのに、そのような大年増の色香に血迷うて骨抜きにされるとは、嘆かわしいことでおじゃりますなあ。
―摂関家のご子息とはいえ、襁褓の取れぬ中に東夷(あずまえびす)のむくつけき武士どもばかりの中へお行きにならはったのですから、最早、都人(みやこびと)とは言えませんのや。骨の髄まで東夷や。
ここで陰にこもった笑いをかざした扇の陰で洩らすのだ。頼経と竹御所の仲睦まじさは、かしましい公卿たちが話していると噂に聞いたことがある。
が、そのときは特に瑶子だとて何の感慨もなかった。何故なら、瑶子には惟章という恋人がいたし、政略結婚だと判りきっている身なれば、形ばかりの良人となる男が誰を愛していようが関心はなかったからだ。
その我が身がまさかこんなにも頼経を愛するようになるとは考えもしなかった。愛するからこそ、心が苦しい。亡くなった人が恨めしい。
瑶子はその場で泣き続けた。
一方、同じ頃、居室にいた頼経は小さな息を吐くと、手にした持仏を厨子に戻した。
「済まない。一生涯、そなただけを心に棲まわせ愛していくつもりでいたが、愛する女ができてしまったよ。そなたととても似ているんだ。泣いたり笑ったり怒ったり、色々と忙しい娘だ。まだ年若いから、出逢ったときのそなたよりは稚いが、いずれは良き御台所となってくれるだろう。こんな私を許してくれるか?」
―千種よ。
頼経は心の中で愛しい前妻の名を呼んだ。この名はけして人前で呼ぶことはできない。頼経との婚礼を目前に急死してしまった本物の紫姫の代わりに替え玉に仕立てられた千種。
それでも不本意に強いられた人生を結局は受け容れて雄々しく生き抜き、身代わり姫源鞠子としての生涯を見事に終えた。彼女の成したことは今も?竹御所?として人々が伝説のようにその素晴らしさを語り継いでいることからも判る。
「これからはそなたを守ると誓ったように、あの娘を守ってやろうと思う。だが、私はあの娘に子を産ませたくはない。あの太陽のような笑顔を守ってやるために、子を産ませたりはできない。だが、そのことを私はどうやって、瑶子に伝えれば良いのか」
頼経は立ち上がり、頬をつたう涙を無造作にぬぐった。相変わらず自分は女々しい男だ。
ふと、人の気配を感じたような気がして、頼経は振り返った。これでも、だてに武家の棟梁として育てられたわけではない。執権泰時は頼経が幼いときから最高の師を付けて武芸、学問、帝王学とすべてをたたき込んだ。風がそよと吹きすぎた気配ですら、頼経は嗅ぎ分けることができる。
「はて、誰か人がいたようだが」
頼経は部屋を大股で横切り、御簾を上げた。磨き抜かれた廊下に一輪の花が落ちていた。姫小百合だ。
「―瑶子?」
頼経は声高に呼び、廊下の少し先まで探してみたけれど、既に妻の姿はそこにはなかった。頼経は居室まで戻り、廊下に落ちた姫小百合を拾った。可憐な花が少ししおれている。
何故、滅多にここまで来ることのない瑶子がやって来たのか? しかも姫小百合の花を持って―。そこまで思い至り、頼経はハッとした。
もしや瑶子は自分が持仏を眺めているところを見たのでは。御所内の人間がこの持仏について何と噂しているか知らぬ頼経ではない。彼自身は特に千種の身代わりにするために、この仏を彫ったわけではない。息を引きとるまで身代わり姫として他人の人生を生きなければならなかった彼女の苦しみを思えば、死んでまで?身代わり?を作るのはあまりに哀れだ。
自分ではさほど似ているとは思っていないのだが、他人にはそう見えるらしい。頼経は千種の供養にでもなればとの想いで作った仏だった。どうも周囲は自分と千種の関係を殊更飾り立てて伝説のように大仰に話しているらしいけれど、それは違う。
確かに十六も歳の離れた夫婦の心が通じ合ったのは稀有なことであったかもしれない。だが、頼経にとって、千種との出逢いは必然であり、恋に落ちたのもまた宿命であった。ごく普通の男と女がめぐり逢い、恋をした。ただそれだけのことだ思っている。自分たちの立場が将軍と御台所という特殊な立場だから、ここまで話が大袈裟になるのだろうが。
頼経は想いを振り払うように、首を振る。こんなことを考えている場合ではない。瑶子は確かにここに来た。そして、自分が女々しく竹御所に似ていると噂の仏像をなでさすっているところを見たに違いない。
「何で声をかけないんだ!?」
恐らく声をかけたくてもかけられなかったのだ。頼経は手にした姫小百合を後生大切そうに懐にしまい込み、足早に部屋を出た。
切なすぎる夜
瑶子はグスッと洟を啜った。
―ああ、私ったら、こんなときでも、少しも美しくもないのね。
恋に破れた女が一人、海辺に佇み物想いに耽るという図は何か絵物語の中のように美しく叙情的に思えるのだが、今の自分は泣くだけ泣いて顔は洟と涙でびしょ濡れだ。これでは絵物語の中の美しい女主人公のようなわけにはゆかない。
今日も鎌倉の空と海はどこまでも蒼かった。海の色をそっくりそのまま溶かし込んだような蒼穹に白い雲が所々刷いたように浮かんでいる。
瑶子はしばらく波打ち際に沿って、ゆっくりと歩いた。途中からは草履を脱いで素足になって歩く。太陽で温められた砂と冷たい海水が直接素足に当たって何とも心地良い。
瑶子はふと眼をまたたかせた。
少し離れた前方に、小さな小屋らしきものがある。この間、頼経と訪れたときはこのあ辺りまでは来なかったから、気付かなかったのだろう。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ