華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
―私はあなたさまと真の夫婦になれて、嬉しく思っているのです。
極めつけのあのひと言には参った。あんなにも素直に心情を吐露されれば、嬉しいには決まっているが、どう反応すれば良いのか判らない。だから、咄嗟に言葉を失ってしまった。頼経とて瑶子を抱いたのを後悔などしてはいない。が、夫婦の営みを繰り返す度に、本当にこれで良かったのかと自問自答をしているのも確かなのだ。
契りを結べば、瑶子が身籠もる可能性は限りなく高かった。最初の妻であった千種は初めて結ばれた夜に身籠もった。瑶子が新しい御台所に選ばれた理由は?すみやかに御子を生み奉ることが可能?だからだ。
瑶子を夜毎、抱く度にその不安は増してゆく。そうならないように頼経はできるだけの回避策を講じているつもりであったが、それだけで避妊対策として十分なのかは判らない。もし万が一、瑶子が懐妊したらと想像しただけで怖ろしい。
頼経は小さくかぶりを振る。止そう、今は瑶子に逢って話をする方が先決だ。とにかく謝ろう、昨夜は手荒くして済まなかったとただひと言伝えれば良い。
頼経が瑶子の居間の近くまで渡廊を歩いてきた時、御簾を巻き上げて端座している人影を認めた。五月の陽光が真っすぐにその人影を照らしている。丁度こちらに横顔を向けているので、光の加減で整った横顔に陰影が刻まれていた。
頼経の脚が止まった。いや、呼吸さえ止まったような気がした。
「―千種」
けして呼ぶことはないであろう名が無意識にこぼれ落ちる。その声に、座っていた人物が振り返った。物音一つない空間で二つの視線がぶつかり、絡み合った。
頼経は早足で彼女の許に向かった。その女がわずかにみじろぎする気配があった。
「千種っ」
頼経は何の逡巡もなく彼女を抱き寄せた。
「御所さま」
菊乃が呼んだ。だが、頼経は手を緩めようとはせず、抱きしめた手にますます力をこめる。
「御所さま!」
菊乃がやや厳しい声音で叫んだ。
「千種、逢いたかった」
頼経が菊乃の髪に頬を押し当てる。くぐもった男の声に、菊乃ははっきりと訂正した。
「私は異母姉(あね)ではございませぬ」
「だが、私にはそなたが千種に見えてならぬのだ」
菊乃は凜とした声で断じた。
「その手をお放し下さいませ」
「いやだと言ったら? 私は将軍だ。御所内の女房を自由にする権限は持っている」
「御家人の―家臣の妻を鎌倉どのともあろうお方が略奪されるとでも? そのようなことが許されるのですか」
「―」
頼経から返答はなかった。菊乃は両手で頼経の身体を押しやった。
「しかとお気持ちをお持ちなさいませ! 今の御所さまのお姿を見て姉が歓ぶとお思いなのですか?」
ただ女一人、本気を出せば頼経が負けるはずがない。だが、頼経はそれ以上、菊乃に手を伸ばそうとはせず、惚けたように座り込んだまま空(くう)を見つめていた。
頼経の耳を菊乃の静かな声が打った。
「確かに私は外見は姉に似ています。さりながら、中身はまるで違います。もう御所さまもお判りになっていらっしゃるのではございませんか? 姉に似ているのは私ではなく、むしろ今の御台さまです。そして、御所さまがお好きなのも私ではなく、御台さまなのです」
「許せ、菊乃」
頼経は大きな息を吐いて立ち上がった。
「御台さまとの間に早うに御子をお作りなさいませ。我が家にも今年中にはまた新しき家族が増えそうにございます」
菊乃の声を背に受け、頼経は首だけ曲げて振り返った。
「康英も歓んでおるであろうな。あやつは子煩悩ゆえ」
菊乃の良人河越康英は大男だ。縦も横も尋常でなく大きく、髪は生来の縮れ毛で、どんなに綺麗に菊乃が結ってやっても四方に撥ねて飛び出てしまう。伸ばし放題の髭は口許を覆い、そんな彼は御所内の女房たちからは?熊どの?とひそかにあだ名されていた。外見が熊に似ているからだ。
が、至って気の良い男で、頼経にも忠義を尽くしてくれる。謀には無縁のような男で、実直を絵に描いた気質はかえって追従ばかりを並べ立て腹では何を考えているか知れぬ能吏よりはよほど信頼が置けた。
細やかに何でも気の付く菊乃とは正反対のように思える夫婦だが、そこがかえって良いのかもしれない。
その康英はまた子煩悩な父としても有名であった。重臣ばかりを集めての会議の途中ですら、子どもが熱を出したというだけで慌てふためいて中座するような男なのだ。執権北条泰時は公私混同するなと渋い顔だったが、そこは頼経が取りなしてやったこともあった。
―良いではないか、家族を守れる父親こそがまた国をも守ることができるのだ。一家を守れぬ弱き者に鎌倉が守れるわけがない。捨て置け。
不幸にして頼経は第一子を失った。だが、我が子が生きていれば、恐らく同じ場面では康英と同じようなことをするかもしれない。父の子を想う心を咎めるつもりはなかった。
この頃から代々執権を務める北条得宗家と将軍である頼経の間には意見の食い違いが目立つようになっていた。人としての情を通そうとする頼経に、執権泰時は
―鎌倉どのはお優しすぎて、甘い。
と手厳しかった。一方、泰時は情よりは理でもって政を行うべしとの信念があった。
その亀裂は見えない部分で少しずつ深まっていき、後に頼経の運命を大きくまた変えることになるのだが―、それはこの物語の更に後のことになる。
「妊娠初期は身体を冷やさぬ方が良いと聞いた。康英のためにも大事にせよ」
「ありがとうございます」
菊乃の声は先刻のことなどなかったかのように落ち着いていた。そのことに救われたような想いで、頼経は今度こそ菊乃に背を向けた。
「御台さまはただ今、お庭に出ておられます」
「そうか。また出直してくるとしよう」
頼経はもう二度と振り向くことなく、来たときと同様に足早に歩き去った。
物事というものはひとたび悪い方へ転がり出すと、それが続くものである。その同じ日の昼前、瑶子は庭で姫小百合を一輪だけ伐った。
折角美しく咲いている花を手折るのは忍びないけれど、とても美しく咲いていたので、頼経に見せたいと思ったのである。昨夜は結局、気まずいままに二人ともに寝てしまい、今朝もそれは続いていた。
二人で取る朝食に姿を見せたものの、頼経は殆ど喋らず瑶子とも視線を合わせようとせず、表へそそくさと戻っていった。
だからこそ、二人の想い出の花ともいえる姫小百合を頼経に見せて、何か会話の緒(いとぐち)になればと願ってのことだ。
「折角、綺麗に咲いているのに、ごめんね」
瑶子は姫小百合にひと声かけて伐った。その一輪を握りしめて小走りに駆けるように頼経の居室に急ぐ。瑶子が頼経の部屋の手前まで来たその時、彼もまた丁度、その場所にいた。初夏のこととて、戸を開け放した状態で、御簾が四方に下がっている。その御簾をわずかに跳ね上げて声をかけようとした瑶子の瞳に、頼経の広い背中が見えた。
どうやら、彼は床の間に向かっているようである。床の間には小さな厨子が置いてあり、中には小さな木製の念持仏が納められている。その手彫りの仏像は頼経自らが丹精したものだという。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ