華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
白い花はしばらくは波間をゆらゆらと漂っていたが、すぐに沖へ運ばれて見えなくなった。瑶子は難産で生命を落としたという薄幸の佳人とこの世の光を見ることなく逝った嬰児(みどりご)のために冥福を祈りながら、花が流れていった方を眺めていた。
「真に良かったのか? あの花はそなたのために買ったのだぞ」
頼経が言うのに、瑶子は笑った。
「私は姫小百合を頂きますから」
確かに薄いピンクの可愛らしい小さな百合は瑶子のイメージにぴったりだった。
二人は菊乃が用意してくれた竹籠を開き、浜辺に並んで握り飯を頬張った。
「美味しい」
瑶子は久しぶりによく笑いよく食べた。
「おいおい、急に食べ過ぎると、腹を壊すぞ」
瞬く間に大きな握り飯を三個も平らげた瑶子に頼経は本気で心配する。
「大丈夫ですってば」
いつしか瑶子は頼経が将軍であることも忘れ、実家の兄に対するときのように笑い転げたり、身振り手振りを真似て面白おかしく話していた。
ふと頼経がじいっと見つめているので、首を傾げた。
「何かまた、おかしいことを言いましたか?」
「いや、そうではない。そなたの話はなかなか珍しく興味深いので、面白く聞いている。しかし、話に夢中になりすぎて、米粒がついている」
頼経の顔が近づいたかと思うと、頬に温かくやわらかなものが触れた。頬についた米粒を頼経が口で取ってくれたのだと思った瞬間、頬が熱くなる。
しかし、恥ずかしさはそれで終わらなかった。頼経の唇はそのまま瑶子の唇を塞いだのだ。
「―!」
咄嗟のことに瑶子は愕き、両手を突っ張って押し返そうとしたが、やはり力では敵わない。しかも後ろ頭に彼の手が回って固定されているので、逃れられない。
「そなたが嫌ならば、止めるが」
甘い声で囁かれ、瑶子は真っ赤になりながらも首を振る。頼経が嫌いなわけではないし、口づけがいやなわけでもない。少し愕いただけなのだ。
すぐにまた唇が塞がれた。そっと舌でつつかれ、わずかに口を開くと、すかさず舌が忍び込んでくる。舌を烈しく絡ませ合う度に、瑶子の身体の内で得体の知れぬ熱が溜まってゆく。ピチャピチャと水音がするのが何故か卑猥に聞こえて、意識すれば余計に体熱は上昇していった。
舌を絡め合う濃厚な口づけは角度を変えていつまでも続いた。頼経の大きな手が小袖越しにそっと乳房を包み込んだ時、瑶子の意識はそこで途切れた。
―もう、駄目。
口づけで高まった熱が極限に達して、失神してしまったのである。思えば惟章とも深い口づけの経験はあるが、頼経と交わした口づけほど身体が熱く心臓が煩くなりはしなかった。
これは頼経の方が惟章のときよりも接吻(キス)が上手だということ? そもそも口づけに上手とか下手とか、そういうのがあるのだろうか。そういえば、実家に仕えていた女房たちや既に嫁いだ姉たちも女たちばかりになると、
―源(げん)の大納言さまはお閨がお上手らしいと言うけれど、本当かしら。
―良いわねぇ、そういう殿方に私も抱かれてみたいわぁ。
皆、一様にうっとりした声で囁き交わしていたものだ。
頼経さまが口づけがお上手というのは、つまりはそういうことで―。
そこまで考え、瑶子は狼狽える。
私ってば、昼日中から何と、はしたないことを考えているの! 淫らな妄想に耽っていることを自覚し、ますます身体を覆っていく熱は高まってしまった。
だが、瑶子はまだ知らなかった。そういった技巧はともかく、惟章と頼経に対する彼女の気持ちの違いそのものに、その原因があることを。
俄に力を失って倒れ込んできた妻を頼経は呆気に取られて見つめた。そして、クスリと笑う。
「まだまだ、子どもなのだな」
惟章という恋人がいながら、瑶子が清らかな身体のまま自分のところに来たのは、幸せだったと思わずにはいられない。頼経自身、女性経験があるのだし、特に瑶子が処女であることに拘るつもりはないけれど、瑶子を気に入っただけに、やはり最初にその身体を女として開かせるのは良人となった自分でありたかった。
頼経は気を失った瑶子に膝枕をしてやりつつ、自分は浜辺に座って海を眺めた。そうして、時折、妻の顔を見る。
祝言の夜、雪は嫌いだと瑶子に言った。千種のような女はもう二度と現れないと思っていた。
無邪気で優しい反面、頭の回転は速い。神仏はまた賢く優しい心の清らかな娘を与えてくれた。これまで漠然と感じていたことを、頼経は今日、はっきりと自覚した。
千種と瑶子は似ている。容姿はまったく違うが、心の有様が似ているのだ。我が事よりも他人を気にかける気高い優しさを二人ともに持っている。
確かに瑶子は千種に比べれば稚い。が、千種は若く見えていたが、実年齢は既に三十を越えていた。分別盛りの歳であったのだ。瑶子はそこにもっていくと、まだ十七歳だ。まだまだこれからの経験と教え導くことで、女としても人としても成長してゆく。
そして、無垢な少女を女として心身共に開花させるのは自分の役目なのだ。―と、どうしても瑶子の身体を開くことばかり考えてしまうのは、やはり自分が女タラシだからなのかもしれないが。
そういえば、千種と死に別れてから、女性関係は一切絶っていた。そのせいかもしれない。これでは女に飢えた獣の思考だなと、また苦笑いが込み上げる。瑶子に心の内を知られなくて幸いだ。今、自分が考えている本心を伝えたら、瑶子も警戒して一緒に眠ってくれなくなるだろうから。
頼経は千種を失ってからというもの、ついぞ忘れていた幸せで満ち足りた気持ちでいた。
「そなたのお陰で、雪を見るのも悪くない、愉しみだと思えるようになった。そなたが私の哀しい想い出を快く美しいものに変えてくれたのだ」
愛しげに呟き、瑶子を見つめる。艶やかな黒髪が砂の上に零れ落ちているのをそっと撫で、また視線を海に戻した。
頼経はそれから瑶子が目覚めるまで、ずっと海を眺めながら止むことのない海鳴りに耳を傾けていた。
悪しき夢(結実)
口づけの最中、失神してしまった―、そのことはいたく瑶子を動揺させた。
―口づけだけで取り乱して気を失ってしまうなんて、あんまりにも子どもすぎるわ。
あれでは頼経に呆れられ嫌われてしまったのではないかと不安だった。
由比ヶ浜での一件以来、しばらくは頼経の顔をまともに見られなかった。視線が合っただけで、あのことを思い出してしまい、頬が真っ赤になってしまうのだ。
しかし、頼経は流石に大人の男であった。由比ヶ浜のことなどその後、一切触れようとしなかったし、素知らぬ顔で接してくるので、やがて瑶子も?些細なこと?と忘れてしまうことができたのである。
あれ以外に変わったことといえば、たまに夜、訪れるだけだった将軍のお渡りが毎夜になったことだ。しかし、これも艶っぽい話ではない。相変わらず二人は枕を並べて眠るものの、頼経は瑶子に触れようとはしないからだ。
では、何故、頼経が夜毎、御台所の寝所を訪れるようになったのか? それは瑶子が夜毎見る悪しき夢のせいだ。
由比ヶ浜に行く前も、もちろんその夢を見ていたのだが、たまにしか訪れない頼経と共に眠るときは夢を見ない夜もあった。だから、頼経も知らなかったのである。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ