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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 頼経は笑いながら謝罪した。
「それは失礼した」
 老婆が頼経の背後に隠れるようにして立っている瑶子をジロジロと見ている。
「何じゃ、若さまは以前の奥方とは別れなすったか? 前の嫁さんも良い女じゃったが、今度はまた可愛い娘を連れなさっとるがのう。その若さで、女を取っ替えひっかえできるとはたいしたご身分じゃが、女を泣かすのも良い加減にしとかんと、その中にゃア仏罰が当たるぞい」
 四年前、千種(竹御所)と二人、お忍びで町に出た時、この花売りから花を買ったことがある。老婆は以前、連れていた千種ではなく瑶子を連れているので、気分を害したらしい。とんでもない勘違いではあったが、頼経は真相は話さなかった。
 この老婆の記憶の中ででも、せめて千種が生き続けてくれるのなら、わざわざ死んだと話す必要はない。しかし、完全に頼経を女タラシだと誤解した老婆は?まったく、こういうのが女の敵というんじゃ?と、すっかりお冠である。
「ところで、今日はどんな花を持っている?」
 頼経が老婆の背負った花籠を覗くと、老婆は肩を竦めた。いけ好かない男でも、客は客だと割り切ったらしい。
「今日はもうあらかた売れてしまってのう」
 申し訳なさそうに言うのに、頼経は破顔した。
「いやいや、これだけあれば上等だ。千種の好きだった小手毬もある」
 老婆はここで更に顔をしかめた。
「若さまよう、今の女の前で、前の女の話なんぞ、するもんじゃねえ。女好きの癖に、女心の判らん朴念仁じゃ。手に負えん」
 まくしたてていた老婆が首を傾げた。そっと頼経に耳打ちする。
「ところで、若さまの新しい奥方は話ができんのかのう? 耳も聞こえんのか?」
 いや、と頼経は真顔で首を振った。
「ちょっと身内に不幸があってな、ずっとあの調子なのだ」
 瑶子は相変わらず虚ろなまなざしで突っ立っているだけだ。老婆は頼経をグイと押しのけ、瑶子の前に立ちはだかった。
「まあ、奥方さまって呼ぶには何かまだ可哀想なほど若いねえ。あんた、幾つ?」
「十七だ」
 応えない瑶子に成り変わり、頼経が応えてやった。
「うーん、十七ならむしろ適齢期だけど、その割には幼いねえ。でも、身体つきは立派なもんだ」
 老婆は検分するように瑶子をじろじろと見てから、瑶子に向き直った。
「奥方さま、この若さまはとんでもない女タラシだが、ここまでの上男は鎌倉にもそうそういないよ。こんな良い男を捕まえたのなら、せいぜい愛想尽かされないようにしなきゃ。見たところ、腰回りも頑丈だし、この分じゃ、子どもは十人くらいは軽く生めそうだ。さっさとややを作っておしまい」
 遠慮も何もあったものではなく、瑶子の尻を皺だらけの小さな手で軽く叩いた。更に頼経に
「あたしゃね、こう見えても十年前までは産婆もしてたのさ。だから、女の身体をひとめ見ただけで、この人は安産かどうかっていうのは判るのよ。この奥方はどう見ても安産体型だ。この娘とそっくり同じ腰つきをした女を何人も見たけど、皆、一人で七、八人の赤児を易々と生んでるから」
 と、訊かれもしないことを言う。
 頼経も流石に毒気を抜かれた様子だ。
「今度、逢うときは赤児の一人くらい見せておくれ」
 このたびも売れ残った花をすべて頼経が買い上げてやったので、老婆は別れ際は上機嫌で手を振り振り去っていった。
「現金な上によく喋る婆さんだな」
 頼経は呆れたように言いながら、老婆を見送った。その時、それまでずっと無反応だった瑶子に変化があった。
 それは瑶子にとって、止まっていた周囲の時間が動き出し、灰色に塗り込められていた周囲の世界が再び鮮やかな色彩を取り戻した一瞬だった。
「綺麗」
 心に浮かんだ感想を素直に口すると、頼経の顔が嬉しげに輝いた。
「そうか?」
 頼経の両手には今、抱えきれないほどの花がある。白い可憐な花が無数についている小手毬と姫小百合である。
「やはり、むくつけき男子(おのこ)が持つよりは、花も美しきおなごの方が歓ぼう」
 花束はそのまま瑶子の手に渡った。
 たくさんの花を抱えた瑶子はまさに花の精のようだ。いつもは少し地味にも見える顔立ちが華やかに見え、可憐さが際立つ。
 瑶子を見つめる頼経が少し眼を細めた。実は彼がこんな眼で女性を見つめるのは最初の妻千種以来だったのだが―、瑶子はもちろん、頼経自身もそのことにまだ気付いてはいなかった。
「それでは参ろう」
 瑶子が眼をまたたかせた。
「どこに行くのですか?」
「そなたを連れてゆきたいところがあると申したであろう」
 そういえば、そんなことを言われたような気もする。何となく曖昧だけれど、記憶はあった。そう、自分は惟章が亡くなったと知ってから、ずっとこんな調子だった。惟章を死なせたのは自分ではなかったかと、ずっと我と我が身を責め続けてきた。
 その呵責が瑶子を音も色もない灰色の世界に閉じ込め、瑶子はずっとそこに囚われたままだった。誰に話しかけられても、応えず話さず、食事もろくに取れなかった。
 それは例えて言うなら深い水底にずっと沈んだままでいるようで、人が話してかけてきても、水上のはるか遠くから聞こえてくるような、そんな感じだった。
―御台さまは都恋しく思されて、ついに狂うてしまわれた!
 御所の侍女たちも菊乃以外は皆、物の怪でも憑いたのではないかと遠巻きに瑶子を見て怖がっていたのも知っている。
 そんな中でずっと変わらず声をかけ続けてくれたのは頼経と菊乃だけだった。瑶子は今、頼経の差しのべてくれた手に取り縋り、再び光射す明るい場所へと戻ることができたのた。
 町を抜けると、海が近くなったのか、潮騒の音が一斉に押し寄せてきた。すると、突然、視界がひらけ、蒼い海が一望に見渡せる場所に出た。
 瑶子は思わず歓声を上げた。無意識の中に草履を脱ぎ捨て、波打ち際へと走る。
「これが海にございますね?」
 都生まれの瑶子は生まれて初めて海を見たのだ。瑶子は満面に笑みをひろげて頼経を振り返った。
「幼い頃、母と石山寺に参籠したことがあるのです、その時、道中で琵琶湖を見ました。とても大きくて、これが物語に聞く海というものかと母に訊ねましたら、母は笑って海ではなく湖だと教えてくれたのです!」
 喋りながら、海水に脚を浸し、また歓声を上げた。
「鎌倉は海に近いと聞いてはおりましたが、まだ一度も見たことはございませんでした。本当に美しい眺めです。連れてきて頂いて、ありがとうございます、御所さま」
 それから瑶子はしばらく無邪気に波と戯れては弾けるような笑顔を頼経に向けた。初夏の眩しい陽光にさらされた瑶子のすんなりとした両脚は太陽よりも更に眩しい。頼経は気がつけば、瑶子の顔よりは惜しげもなく露わになっている脹ら脛ばかり見つめている自分に気付き、紅くなった。
 慌ててコホンと咳払いし、視線を逸らす。瑶子はそんなことは考えてもいないようで、相変わらず子どものようにはしゃいでいた。
 ひとしきり浜辺で走り回ってから、瑶子は頼経の許に戻ってきた。
「もう、大丈夫そうだな」
 頼経がポツリと洩らした呟きに、瑶子は頷いた。