華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
瑶子が新しい御台所として選ばれた理由は家柄よりも、健やかで多産系の家の娘であるということだった。幕府は候補に挙がった娘五人についてすべて侍医を差し向け、診察を受けさせた。
その中で、最も早く懐妊し、最も安全に出産できそうな娘と侍医が診立てた姫が選ばれた。それが瑶子だったのだ。
その話を聞いた当初、頼経は我が耳を疑った。例えば人柄、家柄重視というのなら判るが、これでは種馬に掛け合わせる牝馬を探しているのも同然と言わんばかりだ。所詮、将軍とは名ばかりで、自分は血統を残すためだけに必要とされている飾り物だと告げられたようなものだった。
そして、そんな自分に嫁いでくる娘も気の毒だと。現に、幕府の者どもは新しい御台所を単なる子を産ませるための道具だとしか見ていない。最初の御台所竹御所は二代将軍の娘、初代頼朝の孫、源氏嫡流の姫という大義名分があっただけに、重んじられ大切にされた。が、二度目の妻にはそれがない。鎌倉で瑶子が頼りにするのは良人である頼経しかいなかった。
子を産ませるための女など、ごまんといる。いざとなれば、幕府は瑶子をあっさりと見限り、新しい娘をまた頼経にあてがおうとするだろう。
そんな弱い存在の妻を断罪する。それだけは何としても避けたかった。
頼経は小さく首を振った。瑶子より一つ上ということは、あの男はまだ十八歳だったのだ。自分より二つも若い。自分という邪魔者さえいなければ、二人は似合いの恋人として祝福され、いずれ夫婦となれた可能性もあった。
まるで、我が身があの男を殺したような罪悪感にすら陥る。久能からの手紙の終わりには、ゆくえ知れずの最中のことゆえ、亡骸の発見が遅れ、瑶子への連絡も遅くなった。惟章の母である早苗自身が手紙を書くと言ったけれども、それはあまりに酷ゆえ、早苗の代わりに自分が書いたのだと説明していた。
落雷に遭ったため、亡骸は惟章と判別するのは難しいほどで、首にかけていた首飾りだけが唯一、燃えずに残っていたために惟章本人だと判明したとも記されていた。書状と共に、その惟章の形見となった首飾りも届けられている。
頼経はその首飾りを手のひらに載せた。親指ほどの小さな仏像は金無垢だ。面妖なこともあるものだ。大概、金は焔に炙られると溶けるものなのに、この仏は形を少しも変えず見事なまでに原型をとどめている。
見た目は金細工のように見えるが、特殊な技法か材質でも使っているのか。
眼をこらすと、光背の裏部分に
―貞応元年(一二二一年)生 葵(あおい)
と小さな字で彫り込まれている。
葵というのは瑶子の幼名ではないか。瑶子はこの自分の守り仏を嫁ぐに際して恋しい男に与えたのだ―。
頼経は茫然とその仏像を眺めた。惟章が最後の瞬間まで身につけていた瑶子の守り仏。
―済まない。
心で詫びた。それが誰に向けられたものは判らない。若くして非業の死を遂げた惟章か、或いは将軍の妻に選ばれたがために仲を引き裂かれた恋人たち二人か。
私という存在はいつも誰かを不幸にする。最初の妻は頼経と関係したばかりに身籠もり、難産に苦しみ抜いた挙げ句、死産し本人まで亡くなった。今度は二度目の妻は恋人との仲を裂かれ、自分に嫁ぐ羽目になり、その恋人は亡くなった。
頼経の精悍な面にひとすじの涙が流れ落ちた。頼経は涙に光る眼で妻を見た。瑶子は身を揉んで泣いている。彼女は彼女で恐らく自分が惟章を死に追いやったと我が身を責めているのだろう。苦しいのか、瑶子は手のひらで胸を叩きながら泣いていた。
気は引けるがが、惟章の形見となったこの仏像は瑶子に見せない方が良いだろう。この仏を見たときの瑶子の嘆きが察せられるだけに、頼経は妻が今度こそ本当に狂ってしまうのではないかと怖れたのである。後に彼は仏像を近くのさる寺に納め、多額の寄進をすると共に亡き男の冥福を祈らせている。
頼経は堪らず瑶子をその腕に引き寄せ、抱きしめた。
「瑶子」
だが、抱きしめた途端、瑶子の身体から急速に力が抜け落ちた。あまりに深い絶望と哀しみのあまり、意識を手放してしまったのだ。
「許せ―。結局、私はそなたを守ってやるどころか、哀しませることになってしまった」
頼経はやるせなさげに呟き、腕の中でぐったりとする瑶子の髪を撫でた。
瑶子が目覚めたのは、その日の夕刻だった。数時間は昏々と眠り続けた妻の傍らで頼経はずっと妻の顔を眺めていた。
「御所さま?」
長い睫を震わせ、瞳を開いた瑶子のぼんやりとした視界に映じたのは不安げに見守る頼経だった。
「私、私」
現実を認識した刹那、また涙がどっと溢れてくる。
「そなたが悪いのではない。めぐり合わせが悪かったのだ」
頼経の深いまなざしにも穏やかな声音にも労りがこもっている。そのひと言が傷ついた心に滲み込み、優しくひろがってゆく。
瑶子の眼から澄んだ雫がポタポタと落ちる。
「今は泣きたいだけ泣けば良い」
瑶子は頼経の腕に飛び込んだ。頼経が優しく抱きしめてくれる。その広い胸に顔を埋めて、瑶子は泣きじゃくった。
「うっく、ふぇっ」
その後、頼経は一刻後に漸く瑶子が泣き止むまでずっと瑶子の髪を撫でながら抱きしめていてくれた。
その日から、瑶子は別人のように変わり果てた。毎日、何をするでもなく放心したように虚ろな瞳で庭を眺めているだけだ。最早、写経をするでもなく、食事もまともに喉を通らない有様が続いた。
今の彼女はさながら、魂を失った抜け殻だ。そんな自分を頼経が側からやるせない顔で見守っていることすら、瑶子には理解できていなかった。
五月も半ばになろうかという日、頼経がいつものように姿を見せた。惟章の死以来、尋常でない瑶子を気遣い、頼経は暇があれば瑶子の顔を見にやってくる。
「そなたを連れていきたいところがある」
頼経に誘われ、これもいつものごとく惚けたように庭を眺めていた瑶子は、虚ろな眼を頼経に向けた。まるで洞(うろ)のような瞳に頼経は自分の視線を合わせ、瑶子の顔を覗き込む。
瑶子は何も言わず、幼子がするように厭々と首を振る。だが、いつもなら瑶子には甘い頼経が今日だけは違った。
「菊乃、瑶子を町に連れて出てゆくゆえ、目立たぬように支度させてくれ」
そのひと言で瑶子は町の娘のような質素な小袖に着替えさせれ、有無を言わせず頼経に町に引き出されてしまった。
頼経自身もお忍び姿なので、地味な直垂を纏っている。
今日も鎌倉の町は賑やかだ。今、二人が歩いているのは鎌倉でも最も賑わうとされている大路である。道の両端に露店が軒を連ね、通りを大勢の人が行き交っている。露店商が声高に客を呼び、それにつられて蟻が群がるように客が各々の店に集まっている。
その人波を縫うようにして、ゆっくりとこちらへ向かってくる小さな人影があった。頼経はその人物に眼をとめ、手を上げる。
「お婆さん、達者でやっておるか?」
その声に、老婆は曲がった腰をよいしょと伸ばし、改めて声の主を確かめるかのように頼経を見上げた。
「おうおう、あんのときの若さまだね。あっちから花を仰山買うてくれなすった」
「よく憶えていてくれたな」
老婆はヘンと薄い胸を反らした。
「年寄りの記憶力を馬鹿にするんじゃないよ」
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ