華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
そして、別れ際の惟章のあの傷ついた瞳が今も忘れられないのだ。結局、瑶子は土壇場で惟章と共にいくよりは頼経の側で生きることを選んだ。恐らく瑶子が彼に抱かれることを拒んだよりも、彼に付いてゆかないと言ったことの方が惟章にはよほど打撃を与えたに相違ない。
―大好きな男を傷つけてしまった。
その罪の意識は今もなお瑶子を苛み続けている。
惟章のことを考えていると、どうにも気持ちが落ち着かず、勢い日中は居室で写経などして過ごしていることが多くなった。
瑶子が写しているのは?般若心経?である。もう何巻めか判らぬのを最後まで書き終えたまさにその時、菊乃が姿を見せた。
「御台さま、京よりお文が届いておりまする」
瑶子は眼をまたたかせた。
「都から?」
菊乃が微笑む。
「はい、お父君よりの書状のようにございますが」
「ありがとう」
礼を言って手紙を受け取り、早速、巻紙状になっているそれを開いた。父は生来、文章など書くのは苦手な質である。当然ながら、公卿のたしなみとしての和歌も苦手だ。その父が手紙とは珍しいことがあるものだ、よほど伝えたいことがあったものかと父独特の手蹟を眼で追っていた瑶子は蒼白になった。
文はごく短いもので、ほんの数行しかない。だが、そこに記された内容は瑶子を奈落の底に突き落とした。
「御台さま、いかがなさいました?」
瑶子は今や顔からすっすり血の気がなくなっていた。傍らに控えていた菊乃が気遣わしげに問うのに、瑶子はひと言呟いた。
「惟章が―死んだと」
菊乃は小首を傾げている。無理もない、鎌倉生まれの鎌倉育ちである菊乃が惟章を知るはずもなく、また、瑶子は鎌倉方の使用人誰にも惟章の存在を明かしていなかった。頼経という良人がいながら、惟章と恋仲にある以上、不必要に惟章の存在を鎌倉の人間に知らせるのは危険だからである。
「あっ、ああーっ」
瑶子は悲鳴を上げて、その場にうち伏した。号泣する瑶子を菊乃は茫然と眺めている。菊乃には瑶子の泣き声は意味不明の獣の雄叫びにしか聞こえない。
あまりのなりゆきに、菊乃は若い御台所が乱心したかとさえ思った。ただ、瑶子の激変は都の父藤原久能からの書状を読んだのがきっかけのように思えた。あの中に何か瑶子の心を一瞬で粉々に打ち砕いてしまうような衝撃的な出来事が綴られていたとしか思えない。
菊乃の判断は速かった。すぐに若い侍女を呼び、頼経に事の次第を知らせるように告げた。表で政務を執っていた頼経は知らせを受け、すぐに奥向きに渡った。そのときもまだ瑶子は突っ伏して泣きじゃくっていた。
その様子をひとめ見るなり、頼経もただ事ではないと感じたらしい。傍らの菊乃にすぐに訊ねた。
「御台がこのようになったのは、いつのことだ?」
菊乃は瑶子の傍らに落ちていた書状を頼経に渡した。
「都の御台さまのお父君藤原久能卿よりのお文にございます。昼前に都から早馬にて届いたものを御台さまにお眼にかけましてございます。これをご覧になるなり―」
菊乃は先を続けることはできず、絶句した。いつもは冷静沈着で動じぬ彼女まで蒼褪めていた。どう見ても、御台所は狂ったとしか思えない状況だ。
頼経は藤原久能から届いたという書状を読んだ。御台所宛ての私信を見るのは気が引けるが、時は急を要する。文をひととおり読んだ頼経は痛ましげに妻を見た。
文には癖のある字で数行綴られていた。それによれば、瑶子の乳人早苗の一人息子藤原惟章が亡くなったという。場所は鎌倉から京に向かう山道の途中、老木で急な豪雨を避けようとして落雷に遭遇した。雷が老大樹に落ちたのである。
惟章は卯月の初め、急に奉公先の屋敷から姿を消した。母親と主人の久能には数日の休みを願い出て許されてはいたが、所在は告げていなかった。恐らく、惟章は瑶子に逢うために京からはるばる鎌倉にやって来たのだ。
そして、頼経は瑶子と惟章の密会現場をたまたま見つけてしまった。
あの夜、頼経は二人の会話を最初からすべて聞いていた。あれだけのやりとりから、二人が深い仲であるということはすぐに判った。惟章が瑶子を陵辱しようとした時、瑶子は泣いて嫌がっていた。あれを見れば、瑶子が無垢な身体のまま嫁いできたのだとは判った。
しかし、大切なのは二人の間に身体の繋がりがあるかどうかというより、その精神的な結びつきの方だと頼経は考えていた。身も蓋もない言い方をすれば、愛情などなくても、身体だけを繋げることはできる。そういう繋がりは断ち切るのも容易い。けれど、心で繋がっている関係はそう易々と断ち切れるものではないからだ。
瑶子が惟章をまだ愛しているのは確かだ。心優しい娘は自分を手籠めにしようとした男を許し、いまだに想っている。頼経に言わせれば、幾ら惚れ合った仲だとはいえ、女を暴力で服従させるなぞ男の風上にも置けないと思うのだが。
彼自身、十代の頃、最初の妻である千種と初めて結ばれたときは確かに力に物言わせて抱いたこともある。惟章のようにはっきりと手籠めにしようとしたわけではないが、あの初夜のことも若気の至りだと今では思っていた。
迎えたばかりの新妻に間男がいたと、こういう時、世間では言うのだろう。大変な醜聞である。事が公になれば、惟章も瑶子も生命はないだろう。二人の仲は瑶子が将軍家に嫁ぐ前から続いていたのだ。しかも、嫁いで将軍の妻でありながら、鎌倉の御所内で乳兄弟と密会していた―それだけで、罪は十分すぎる。たとえ瑶子が呼んだわけでなくても、結果的に御台所が間男を自室に引き入れていたということになる。
瑶子の父藤原久能も失脚は免れないであろうし、幕府の権威も大いに失墜する。妻が他の男と恋仲であったと知るのが嬉しいはずはない。だが、不思議と怒りは感じなかった。ただ、祝言前に聞いたところでは、当の花嫁があまりこの結婚に乗り気ではないらしいという話だったので、その裏にはこういう事情があったのだと漸く合点がいった。
腹を立てるというよりは、むしろ瑶子を哀れに思った。結局、この政略結婚は瑶子と惟章という若い恋人たちを引き裂いたのだ。そして、彼らを引き裂く元となったのは他ならぬ我が身ではないか。
すべてのことを考え合わせて、ここは頼経自身が口を閉ざすのが最良の道であると思えた。こんな時、男だ良人だ、将軍だと体面を真っ先に考えなければならない立場であるのに、何故か彼はそんなことは些末にしか感じられなかった。
頼経はただ瑶子を守りたかった。自分の腕の中で傷ついた小鳥のように怯え震えていた少女をこれ以上苦しめたくなかったからこそ、すべてを知らなかったことにしたのだ。
頼経が惟章を追捕しなかったのは何もあの男に情けをかけたからではない。惟章を捕らえれば、瑶子が哀しむだろうし、それよりもまず御台所とその乳兄弟の醜聞が明るみに出てしまう。事が公になれば、幾ら将軍の力をもってしても、瑶子を庇うことも守ることもできない。
それでなくても、執権北条泰時は道義に背くような行為は嫌う潔癖な男だ。瑶子は京の公卿の娘であるにすぎず、鎌倉幕府方には何の関係もない氏族の出であるだけに、切り捨てられるのは早いだろう。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ