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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 まだ赤児の頃に親から引き離され、たった一人鎌倉の地に来てから二十年、けして長い年月ではないその間に、幼くして将軍となり重責を担い、十六歳で最初の妻と子を同時に失うという大きな哀しみに見舞われた。
 頼経が瑶子がよく知る二十歳の男よりも随分と大人びて見えるのも、その苦労のせいだろう。たった二十年の人生をこの人は風のように駆け抜けるように生きてきた。そう思うと、心の奥が引き絞られるような痛みを感じた。
―私は竹御所さまのように美しくも賢くもないけれど、できれば少しでも妻として頼経さまのお役に立ちたい。
 それは瑶子の中で初めて御台所としての自覚が芽生えた瞬間でもあり、また良人として頼経にわずかなりとも心が近づいた夜でもあった。
「おやすみなさいませ」
 瑶子は頼経に向かって小声で囁きかけた。何もかも委ねて眠っているのは、頼経が瑶子を信頼してくれている証だと思えば嬉しい。
 瑶子はそれからもしばらく頼経の端正な顔を見つめてから、自分も褥に戻った。その夜は惟章とあんな別れ方をしたはずなのに、何故か朝までぐっすりと眠れた瑶子であった。
 
 生と死

 男は山を下る一本道を急ぎ足で歩いていた。時折、睨みつけるかのように頭上を振り仰げば、つい今し方まで陽光が眩しく輝いていた初夏の空は既に薄墨色に染め上げられ、不気味な閃光が閃いている。
 ポツリと冷たい感触が頬に触れ、男は思いきり舌打ちをした。ほどなく雨粒が落ち始め、雨は瞬く間に豪雨となり地面に叩きつけ始める。
「畜生」
 男は悪態をつきながら、前方に見えた手近な樹まで走った。樹齢何百年か定かではない老木は青々した葉を茂らせ、この梢の下にいれば、多少の雨は凌げそうである。
 予想は当たった。葉を一杯につけた梢の下に入り込んでしまえば、この大雨も何というほどのこともなかった。男は根元に腰を下ろし、身体中についた雫を懐から出した手ぬぐいで拭き取った。左腕の上部を拭おうとしたその刹那、鋭い痛みが走り、ツと顔を歪める。
「畜生っ」
 また悪態をつき、男は怪我をしていない右手で拳を作り、ダンと地面を叩いた。
 鎌倉を逃げるように出て二日、これだけの怪我をした身では本来なら、ゆっくりと怪我が癒えるまで、どこかに身を隠していたかった。が、何しろ相手が悪すぎた―というよりは大物すぎた。一公卿に仕える、しかも無位無冠の公家とは名ばかりの自分が?鎌倉どの?と崇められる将軍に敵うはずもない。
 惟章は深手を負ったままで、あの夜の中に鎌倉をその脚で逃げ出した。
 あやつは卑怯にもその権力に物言わせて、俺から瑶子を奪ったのだ。頼経自身は何の力もない若造の癖に、たまたま生まれが良いのが幸いして高貴な武家の棟梁という地位に据えられ、奉られているにすぎない。
「瑶子、俺から逃げられると思うなよ、俺は必ずやあなたを鎌倉どのから奪う」
 惟章は見えない敵があたかもそこにいるかのように、キッとしたまなざしで宙を睨みつけた。
 遠方でゴロゴロと嫌な音が聞こえている。雷が鳴っているのだ。梅雨入りするにはまだ少し早いから、通り雨だろう。惟章は大樹の幹に背を凭せかけた。疲れのあまり、すぐにうとうとと微睡みが訪れた。どれほどの間、眠り込んでいたのだろう。
 耳をつんざくような轟音が辺りに響き渡ったせいで、彼は眼を覚ました。何事が起こったのかと眼をまたたかせる。頭に鈍い痛みを憶え眉をひそめ、次第に覚醒してくる意識で今、自分がどこにいるかを思い出そうとした。
 その時。先刻よりも更に大きな音がして、地が揺らいだのかと思った。眩しいほどの閃光が視界を覆い尽くし、それから彼の意識は次第に遠くなっていった。
 熱い、身体が燃えるように熱い。いや、俺は今、まさに燃え盛る劫火に灼かれている最中なのだ。惟章は自分が雨宿りに選んだ場所―大樹に落雷が落ちたことをその時、初めて知った。
―瑶子、俺は本当にあなたを好きだった。だけど、その大切な女を俺は泣かせて犯そうとした。その天罰が下ったのかなァ。もし、姫が俺の死を聞いたら、泣いてくれるだろうか、瑶子、俺はあんな男に瑶子を渡したくないんだ。
 惟章が最後に見たのは、花がひらくように微笑む瑶子の眩しい笑顔だった。
 そうさ、俺はいつも姫の笑顔が眩しくて、見ていられなかった。ちっちゃくて可愛くて、いつも俺の後をちょこちょことついて歩く姫が妹のように可愛かった。そんな子が次第に綺麗になって、気が付けば、かけがえのないたった一人の女になっていた。
 短い人生だったけど、俺が望むものは姫しかなかった。瑶子さえ手に入れられて、可愛い姫を妻にして二人で生きていけたなら、他に望むものはなかったんだ。
 姫の笑顔が眩しくて見ていられなくなった頃から、姫は俺にとっては特別な?女?になった。瑶子、もう一度だけ、瑶子に逢いたい。
 そこで、惟章の意識はふっつりと途絶えた。
 大樹は紅蓮の焔に包み込まれ、轟々と音を立てて燃えていた。時折、火の粉が舞い上がり、それは到底、この世のものとは思えぬ烈しくも凄惨な光景であった。  
 雨は先刻までの大降りが嘘のように上がっている。空には晴れ間さえ見え始め、ただ唸りを上げて燃え盛る大樹だけが意思を持つ焔の魔物のように刻一刻と形を変えてゆく。
 そこについ今し方まで偉容を誇る老木が存在したかなど信じられないほどに、焔はすべてを舐め灼き尽くした。

 そのときは突然、やって来た。明日からいよいよ暦が五月に変わろうという日の午後、瑶子は居室で写経をしていた。惟章と予期せぬ別離をしてから、かれこれ二十日余りになる。
 あの夜、頼経と瑶子は祝言以来初めて床を共にした。もっとも、実質的には頼経は瑶子に指一本触れてはおらず、二人の夫婦関係は今までどおりの形だけのものである。それでも、頼経はその夜を機会に、たまに御台所の許を訪れて同じ寝所で眠るようになった。
 このことで、重臣一同がどれだけ安堵したかは計り知れない。彼らは皆、一様に将軍夫妻が既に名実共に夫婦になったと信じ込んでいる。以前、御子ができるまでだけで良いから、御台所の寝所に通うようにと頼経に進言した古参の御家人がいた。
 将軍家を思うがゆえの忠義が言わせた言葉ではあったが、若い将軍はそれに対して珍しく激怒した。この御家人はまた今度も
―これで今年中には御所さまと御台さまの間には御子が授かりましょうぞ。
 などと、既に瑶子が懐妊したかのように上機嫌で触れ回っているとかいないとか。
 現実として頼経は瑶子を抱いていないのだから、御子が云々というのはあり得ない話なのだけれど、頼経は敢えてその噂を訂正することはなく淡々としていた。
 最初の方こそ、なかなか緊張して眠れなかったものの、今では瑶子は安心して頼経と枕を並べて眠ることができる。これまで数度閨を共にしても、頼経は一度も瑶子に触れようとはしなかった。
 たまに、かえって自分には女としての魅力がないのかと瑶子が落ち込むほどである。
 一方、瑶子の中には依然として惟章への恋情がいまだ消えぬ燠火のようにくすぶっている。頼経の言うように、惟章がたとえ一時激情のあまり瑶子を犯そうとしたのだとしても、それは本心ではないと信じていた。