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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 瑶子はまだ震えが止まらない身体でその場に跪き、気丈にも頼経を見上げた。
「私めは、いかようなる処分をも受ける覚悟はできております」
「そなたという女は」
 頼経は泣き笑いのような表情で瑶子を見つめ、ゆっくりと首を振る。
「とにかく話は後だ」
 頼経が再び瑶子を抱き上げた。身を強ばらせる瑶子を見て薄く笑う。
「案ずるな。まだ震えている身では、歩くのは辛かろう」
 彼は瑶子を部屋まで連れてくると、そっと壊れ物を扱うように降ろした。
「まずはこれを羽織れ。そのような姿はこの上なく魅力的で男としてはそそられるが、いささか眼のやり場に困る」
 頼経が笑いながら差し出した袿を受け取り、瑶子は彼の視線を胸許に感じた。よくよく見れば、豊かな乳房が丸見えになっている! カーッと頬に血が上り、慌てて前をかき合わせ、渡された打掛を羽織った。
 心ノ臓が煩い。まるで身体中の血が顔に集まったかのように頬が火照った。
「さて、話があるのなら聞こう」
 頼経が言うのに、瑶子はうつむいた。少しく迷った後、言葉を吟味しつつ口を開いた。
「惟章は乳母子なのです。現在は無位無冠ではございますが、元々は彼自身も藤原北家の流れを汲む同じ藤原氏の者なのです」
 頼経は頷いた。
「なるほど、ということは九条家の出である私ともかすかな縁で繋がっておるということになるな」
「遠縁のよしみで、他家に女房として仕えていた乳母が良人に先立たれ、幼子を抱えて困っていたところ、私の父が乳母として雇い入れました。丁度、惟章がまだ乳呑み児であったため、乳が豊かに出たのです」
「更に―」
 言いかけた瑶子を頼経は手で制した。
「止そう、ここから先はそなたにも惟章とやらに申したのと同じことを言う。私は今宵、ここで何も見なかったし聞かなかった。そういうことだ」
「ですが」
 言い募ろうとした瑶子に頼経が苦渋に満ちた表情で言った。
「判らぬか、これ以上を聞けば、いかに私だとて、そなたを処断せざるを得なくなる。できれば、私はそのようなことはしたくないのだ」
「申し訳ございません」
 瑶子の瞳からまた涙がほろりと零れた。頼経はこんなにも優しいのに、自分はこの優しい男を嫁ぐ前から裏切り、騙そうとした。
 頼経は深い息を吐いた。
「それよりも私は、そなたの方が心配だ。心優しいそなたは、あのような酷い目に遭わされてもなお最後まで惟章を庇い通そうとした。あやつがそなたを愛しいと思うておるのはひとめで判る。そこまで惚れ抜いたおなごを攫うてゆきたいと思いつめる心も同じ男として判らぬではない。だが、あやつは嫌がるそなたを陵辱しようとし、最後は手を引かれて泣くそなたを見ても放そうとしなかった。あのまま私たちがそなたを奪い合っておれば、冗談ではなく、そなたの手は引き裂かれたやもしれぬ」
 だから、私は手を放したのだと、頼経は呟いた。
「たとえ、そなたを失うことになっても、その手が引きちぎられてしまうよりはマシだからな」
「―」
 惟章は痛みに泣く瑶子を見ても手を放そうとしなかったのに、頼経は瑶子の苦しみ様を見るに見かねて手を放してくれた。すべては瑶子のためを想ってのことだった。
「良いか、瑶子。そなたはまだ幼いゆえ、愛や恋というものがどのようなものか知らぬ。愛は烈しければ烈しいほど、時に憎しみにも変わるものよ。殊に相思相愛のときはともかく、相手の心が自分から離れようとすれば、憎しみは燃え上がり、相手を傷つけても手に入れて想いを遂げようとする。だが、それは真の愛ではない」
 頼経が瑶子を痛ましげに見つめた。
「そなたには酷いことを言うようだが、惟章は思い違いをしておる。あやつがそなたに惚れておる気持ちは本物だが、それは身勝手な男の恋情にすぎぬ。そなたを心底から大切に思うならば、第一、手籠めにしたりまではしない。今後、あやつが何を申してきたとしても、そなたは惟章の言葉に乗ってはならぬぞ。あの男はそなたが思い通りになるときはそれで良いが、少しでも意のままにならぬとなれば、そなたを酷い目に遭わせる危険がある」
「―判りました」
 瑶子は消え入るような声で応えた。
 頼経は優しい眼で瑶子を見た。
「言い訳がましいかもしれぬが、私は何もそなたをあやつに渡したくなくて、このようなことを申しているのではないぞ。もし惟章が本当にそなたを愛しく思い、これから先もずっと瑶子を労ってくれるというなら、歓んでそなたをあやつの手に委ねよう。互いに想い合うそなたたちであれば、できるなら想いを遂げさせてやりたい。それが私の気持ちだ。だが、惟章は大切なそなたを託すだけの器とは思えぬ、それが理由だ」
 頼経はそれから、こんなことを独りごちて静かに笑った。
「これでは、まるで妹を嫁に出す前の父か兄の心境だな」
 その夜、頼経は結婚以来、初めて妻の許で夜を過ごした。とはいえ、別に二人の間に何があったわけではない。後から聞いたところによれば、頼経はその夜、あまりにも見事な満月だったため、瑶子と共に眺めようとふと思い立ったのだという。
 瑶子が琴をたしなむと聞いていたゆえ、横笛の名手である彼は満ちた月を眺めつつ、和琴と笛の合奏でも愉しみたいと考えた。思いつくと、それがまたとない妙案のように思えてならない。矢も楯もたまらず、夜更けにも拘わりなく妻の許を訪れたのであった。
 寝所の一つ布団に並んで横たわりながら、頼経はしみじみと言った。
「やはり来てみて良かった。私が来なければ、そなたがどのようになっていたかと考えただけで、生きた心地がせぬわ」
 頼経がどこまで惟章との会話を聞いていたのかは判らない。けれど、彼の様子では、恐らくはほぼすべてを知ってしまったと考えて間違いはないだろう。
 しばらく静かな時間が流れた。燭台の淡い明かりに照らされただけの広い寝所には沈黙が満ちていたが、かといって、気まずいといった雰囲気はなかった。
「お怒りにはならないのですか?」
 瑶子が恐る恐る口を開くと、ややあって頼経からいらえがあった。
「そなたには意に添わぬ結婚だったことは薄々知っていた。むしろ、私のために恋人との仲を引き裂かれ、そなたは犠牲になったのだ。怒るも何もなかろう」
 ほどなく隣からは規則正しい寝息が聞こえてきた。瑶子はそっと褥から出て、少し間を置いて横たわっている頼経の寝顔を覗き込んだ。律儀にも一つ褥に入りながら、頼経はちゃんと一定間隔を置いた場所で眠っていた。
 いかにも彼らしい律儀さは優しさの表れだ。
 惟章と頼経、共に同じ年頃の若い男なのに、考え方も性格もまるで違う。惟章が焔なら、頼経は春の光かもしれない。だが、頼経がただ穏やかな笑っているだけの男ではないことは、彼が見せたあの一瞬―惟章に向かって短剣を投げつけたときに判った。
 流石は幼いときから執権北条泰時に武芸をみっちりと仕込まれたというだけあり、見事なものだった。到底、摂関家の子息とは思えないどころか、生まれながらのもののふにしか見えない。
 だが、眠っているときの頼経はいつもの分別くささはなく、二十歳の若者らしい顔だ。
―思えば、この方は普通の人間の何倍も苦労なさってきたはずなのだわ。