華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
穏やかな日々が瑶子の側を流れていった。頼経とは相変わらずの関係で、寝所を共にすることはない。それでも形ばかりの良人は常に妻に対して労りを忘れず、二人の関係は夫婦というよりは仲の良い兄と妹といった方がふさわしい。
それに対して重臣たちからは連日のように将軍に進言がなされているとか。中にはあからさまに
―御子がおできになるまでで良いのですぞ、御台さまは執権どのが差し向けた侍医も折り紙つきのすごぶるお健やかなお身体。御所さまも先の御台さまとの間にすぐに御子を儲けられました。お二人の間に御子が授かるのもそう遠い話ではございますまい。どうかお願いですから、今宵こそ、御台さまのご寝所にお渡り下さりませ。
などと頼経に上訴した年配の御家人がいた。これに対して普段は滅多に怒りを露わにすることのない若い将軍が烈火のごとく憤った。
―私は種馬ではないし、御台も子を産ませるための道具ではない。そのような物言いは不快であり、僭越だ。確かに後継者誕生は急務だとは思うが、あくまでも我ら夫婦の問題である。余計な口出しは無用と心得よ。
穏やかな声を荒げたことのない将軍の逆鱗に触れ、その老臣は這々の体で下がった。
季節はめぐり、いつしか長く厳しい冬が過ぎ、春を迎えていた。鶴岡八幡宮を初め、鎌倉の名所といわれる方々で桜花が一斉咲き揃い、東国の都の賑わいに更に華を添えようとしているある日である。
その夜、瑶子は琴をつま弾いていた。将軍家との婚約が整ったのは十四歳のときのことなので、実家にいる間も和歌を初め手習い、箏の琴など女の諸芸万端はひととおり仕込まれている。どれも秀でているとは到底言い難いものの、ひとおりはこなせる自信はあった。
ふと思い出して普段はしまい込んである琴を取り出してつま弾いていたときのこと、表でコトリという音が聞こえた。最初は猫かと思ったのだけれど、物音はそれ以来、ぴたりと止んだ。その静けさが逆に不審で、彼女はつと立ち上がり、表まで様子を見にいった。
三間続きの部屋を通り抜け渡廊に佇むと、ホーホーと物哀しげなミミズクの啼き声が聞こえた。その啼き声に瑶子は弾かれたように顔を上げた。
その視線の先、庭の片隅で満開に咲き誇っている桜の大樹の陰から、ゆっくりと現れ出でた黒い影を息を呑んで見つめる。それは初めは闇が凝(こご)って人の形になったのかと思いきや、月明かりの下でははっきりとした輪郭を現した。
「―惟章」
吐息のような囁きで呼んだ愛しい男の名が春の夜気に溶け込んでゆく。
そのミミズクの声こそ、二人がいつもひそかな逢い引きのときに合図として使っていたものだ。昼は小鳥、夜はミミズク、惟章は真の動物のように巧みに鳴き真似を使い分けて見せた。
「姫さまっ」
惟章が言い終わらない中に、瑶子は走り出していた。惟章もまた駆け寄って、腕に飛び込んできた瑶子をひしと抱きしめた。
「惟章、惟章なのね?」
言えなかった言葉、語れなかった想いがもどかしく咽元につかえる。つかえた想いは溢れんばかりの涙となって瑶子の頬を流れ落ちた。
「瑶子」
惟章は瑶子のか細い身体を強く抱きしめ、その髪に頬ずりした。
「逢いたかった。瑶子に逢いたくて、気が変になりそうだった」
「私もよ、惟章にひとめ逢いたくて、いつになったら逢いにきてくれるのかと毎日、都の空を眺めて泣いていたわ」
「もう離さない」
惟章がきつく抱きしめ、瑶子は小さく息を喘がせた。
「あなたが生まれたときから、俺はあなたの顔を見ない日はなかった。あの男があなたを俺から奪うまで」
惟章は熱にうかされたように呟き、瑶子の頬にそっと両手を添えた。
「よく顔を見せてくれ。み月もの間、よくぞ姫の顔を見ずに過ごせたものだと、我ながら自分を褒めてやりたいよ」
顔を持ち上げられ、瑶子は少し恥ずかしげに眼を伏せた。間近で見つめる惟章の整った面が朱に染まる。
「何と美しくなったのだ、あなたは。逢わない間に、子どもから大人になった、そんな気がする」
と、惟章の面が月が翳るように暗くなった。
「あなたをここまで美しく花開かせたのは将軍頼経公なのか―」
その言葉に、瑶子の瞳が射るように大きく見開かれた。
「何を言うの! 私が惟章を裏切るはずがないでしょう。私はまだ頼経さまとは」
流石に皆までは言えず、頬を染めてうつむく。その恥じらう様子を食い入るように見つめて、惟章が勢い込んだ。
「なら、瑶子はまだ清らかな身体のままだと?」
瑶子は真っ赤になりながらも小さく頷いた。惟章の顔が歓びに輝いた。
「俺はもうとっくに瑶子が頼経公と―」
再びきつく抱きしめられ、瑶子はまた小さく喘いだ。聞きようによっては、そのあえかな声はどこか艶めいて聞こえる。それが惟章の我慢の糸を断ち切ってしまったらしい。
「姫、このまま俺と一緒に逃げてくれ」
瑶子は茫然と惟章を見上げた。
「惟章、何を言っているの?」
「俺は何度も考えたよ。このみ月の間、瑶子と別れた日のことを思い出しては後悔した。何故、あの時、姫を攫って逃げなかったかと。この三ヶ月は、夜もろくに眠れなかった。頼経公が瑶子の身体を夜毎欲しいままにしているのかと考えただけで、嫉妬に気が狂いそうだった」
「―私もあなたのことを忘れた日はなかったわ。でも、あなたの言うように、私はあなたと逃げることはできない。考えてみて、私はもう藤原親能の娘ではない、将軍家に嫁いだ御台所であり、頼経さまの妻なのよ。その立場であなたと逃げたりしたら、私だけじゃない、あなたもただでは済まないし、私の父や実家、引いては京におわす帝や上皇さまにまで迷惑をかけてしまうことになる」
「だが、このまま別れたら、今度はいつ逢えるかは判らないんだぞ? さしもの身軽な俺も流石に天下の将軍の住まいは警護が厳しすぎて、迂闊には忍び込めない。瑶子はそれでも良いのか? 今はまだなのかもしれないが、いずれ頼経公は瑶子を抱くだろう。そうなったら、俺は俺は―」
惟章が両手で髪をかきむしった。
「今、俺と逃げられないというのなら、せめて一度だけ、俺のものになってくれ」
え、と、瑶子は惟章を見上げた。今宵は満月だ。煌々と蒼褪めて輝く月を背負って佇む惟章の顔に陰影が刻まれていて、これまで瑶子がよく知る優しい乳兄弟とは違う見知らぬ男のように見えた。
黒々とした瞳の奥底に閃くのは紛れもない欲望。それを見た刹那、瑶子は怖くなった。
「惟章、たとえ今、私があなたのものにならなかったとしても、私の心は未来永劫、あなただけのものよ」
「煩い、そんなのは所詮、詭弁だ。女は男に抱かれれば、その男のことしか考えられなくなる。瑶子だって、いずれ頼経公に抱かれたら、俺のことなんて忘れる。そうなる前に、俺は瑶子を抱いて、その身体にも心にも俺のものだという印を消えないように刻み込んでおくんだ」
「惟章、お願い、判って―」
何とか翻意を試みようしていた瑶子の身体がグラリと揺れた。いきなり反転した視界に瑶子は悲鳴を上げた。
「もう我慢できない」
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ