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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 瑶子はわざとらしくないことを祈りつつ、笑みを浮かべた。
「いいえ、私に乳をくれたほどですから、まだ若いのです。確か三十三か四になると思います。そういえば、菊乃と同じくらいですわ」
 人間、訊ねられたくないことを相手に言わせまいとすれば、どうしても普段より饒舌になるものである。この場合、瑶子もそうらしかった。
「そう申せば、菊乃は河越氏の出だと聞きました。河越康正の娘だとか」
 頼経は鷹揚に頷いた。
「流石は御台所だ、よく学んでいるな」
 執権の屋敷に滞在している間、専門の教育係がついて幕府の仕組みや有力御家人などについても色々と学んだ成果だろう。ちなみに河越氏は初代将軍頼朝が実弟同様に信頼していた重臣河越恒正から続いている。恒正には息子がおらず、その舎弟が家督を継ぎ、その次は恒正には甥に当たる康正が当主となっていた。
 康正には早くに亡くなった正室との間に一男一女がいたが、長男は生まれつき盲目で、幼くして寺に入った。また、娘は二十八歳で突如として流行病(はやりやまい)で亡くなっている。その後、康正が側室との間に産ませた娘を引き取り、その娘が婿を迎えた。それが菊乃である。
 現在、菊乃の良人が康正から家督を譲られ、当主となっている。
「康正どのの早くに亡くなった娘御は哀れでしたれど、菊乃がいて本当に良かったことです。聞けば、菊乃とその亡くなったという娘御はよく似ているとか、母違いとはいえ、流石に姉妹でございますね」
「ああ、確かに菊乃はよく似ている。時々、間違えて、その名を呼んでしまいそうになるほどに」
 その刹那、頼経の瞳がまた翳ったように見えた。頼経が何かの想いを振り切るかのように首を振った。
「菊乃と良人の康英の間には二人の子どもに恵まれておる。しかも、二人ともに男子だ、河越氏もこれで今度こそ、安泰であろう」
「はい」
 この時、頼経の心をよぎった想いはあまりにも複雑すぎて、誰にも理解はできなかったずだ。今、?竹御所?として伝わる頼経の最初の愛妻こそが、菊乃の異母姉千種であったのだから。頼経の妻となるはずだった正真正銘の紫姫が二十八歳で亡くなり、極秘裏に祝言の二ヶ月前、紫姫にうり二つであった千種が替え玉に仕立て上げられたのだ。
 この幕府を揺るがす秘密を知るのはごく限られた人間のみだ。むろん、都から嫁いできた新しい御台所が知るはずもない。
 それから会話らしい会話は殆どなくなり、頼経は朝餉を食べ終えると政務のために表に戻っていった。帰り際、見送りのために近づいた瑶子の丈なす黒髪を頼経がくしゃっと撫でる。
「今日も一日、良い子でいるんだぞ」
 髪を撫でる手つきも言葉もまるで幼い子に対するかのようである。しかし、その包み込むような笑顔と深いまなざしに射竦められ、何故か一瞬、瑶子の胸の鼓動が速くなる。
 頼経が表に戻ってから、瑶子は溜息をついた。良人は終始、何もなかったような顔で接してきた。まるで初夜が滞りなく終わったかのような自然な態度は、かえって不自然すぎるほどだ。
 が、そういう良人の態度に感謝しなければならないはずなのに、またしても肩すかしに遭ったような気がするのは何故なのか。待ちわびていた菓子を貰えなかった子どものような気分だ。
 初夜に求めてきた頼経を拒んだのは瑶子の方で、彼は怯える妻に男らしく広い度量で相対してくれただけにすぎない。なのに、昨夜のことなど既に忘れてしまったかのような良人の態度に何故か瑶子は傷ついた。まるで自分が?妻?として必要とされていない、居ても居なくてもどうでも良い存在だと暗にほのめかされているようにも感じられた。
 その後、膳がすべて片付けられ、菊乃が髪を綺麗に整えてくれた。花の形を象った鏡に向かった瑶子の髪をひと房ひと房、丁寧に梳ってゆく。
 鏡に映った自分の顔を見るともなしに見つめつつ、瑶子はつい本音を呟いていた。
「今、御所さまのお情けを受けている方はいるのかしら」
 口にしてから、何というはしたないことを口走ったのかと後悔したが、もう遅い。だが、この聡明な侍女頭は微笑しただけだった。
「ご心配なさいますな、御所さまにそのようなお方は今も昔もおられません。御台さまをお迎えになるずっと前から、毎夜、表のご寝所でお一人で朝までお過ごしにございますよ」
「私ったら―」
 熱くなった両頬は紅くなっているに違いない。あまりの恥ずかしさに、穴があれば隠れてしまいたいかった。だが、一度開いたお喋りな口はなかなか止まってくれない。
 鏡に映るのは、いくら菊乃が美しく装わせてくれても見映えのしない垢抜けない娘だ。化粧と衣装である程度はごまかしているが、頼経には冴えない娘だと思われていることだろう。別に惟章が美しいと言ってくれればそれで良いはずなのに、どうして形だけの良人の眼がそんなに気になるのか。瑶子自身も時分の気持ちを持て余している。
 化粧をしても、さして変わり映えのしない地味な顔をうんざりとして見返す。
「先(さきの)御台所であらせられた竹御所さまはとてもお美しい方であったと聞くわ。菊乃は存じ上げているの?」
 髪を梳いていた菊乃の手が止まった。
「今度は竹御所さまをお気にしていらっしゃるのですか?」
 瑶子は自嘲気味に笑った。
「私、このとおりでしょ。菊乃が精一杯お化粧で綺麗にしてくれても、たかが知れてるもの。子どもの頃から、そうだったのよ。私には姉が何人かいるのだけれど、どのお姉さまもお母さまに似て綺麗なのに、私だけお父さまに似てるの。だから、自分が将軍家御台所に選ばれたと聞いたときには、嘘だと思ったわ。信じられなくて、両頬をつねったらくらよ」
 こんな風にね、と、瑶子は自分の頬を手で引っ張ってみせた。鏡の中の少女の顔は更に醜くなった。
 と、菊乃が声を上げて笑い出した。
「まあ、姫さま、いえ、御台さま!」
 菊乃はまだ笑いながら続けた。
「失礼いたしました。されど、あまりに無邪気というか天真爛漫でいらっしゃって、まだ御台さまとお呼びするよりは姫さまとお呼びするのがふさわしいようですわ」
 無礼なようにも聞こえるが、菊乃に他意がないのは瑶子にも判った。なので、瑶子はそれには触れず、また溜息をついた。
「判ってるのよ。私が選ばれたのは、即刻、子が産める健康な身体の持ち主だったからなのよね。先の御台さまがご懐妊されながら、ご不幸なことになってしまわれたから―。今度は顔なんか二の次だったの。私なんか、子どもが生めるほど丈夫じゃなかったら、絶対に御台所にはなれないわ。でも、それって、何かいやなの。まるで、自分が子を産まされるために貰われてきた犬か猫みたいな気がする」
 そこまで言って、ふいに雫が頬を濡らすのに気付いた。
「帰りたいわ、都に。ここで私を本当に必要としてくれている人は誰もいないんだもの」
 ややあって、菊乃が小さく息を吸い込んだ。