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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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翌朝になった。将軍は迎えたばかりの御台所と夜を過ごしていない。その事実を恐らく御所中の者たちはもう既に知っているに相違ない。得てして知られたくないと願う秘密に限って、隠そうとすればするほど他人に知られるものだ。
 ましてや、先の御台所竹御所をあれど寵愛した頼経が二度目の妻をどのように扱うか。心から幕府の安泰を願う者たちだけでなく、興味本位で注目している輩もいるのは事実であった。
 子を産ませるために迎えた妻、御台所。そのあからさまな視線は、瑶子の心に突き刺さった。御所中に仕える下女までもが自分を蔑みの入り混じった好奇心露わに見つめているような気がしてならない。 
 瑶子の気を知ってか知らずか、床上げを済ませ洗面、身支度を調えた頃、頼経が姿を見せた。
「おはようございまする」
 両手をついて良人を迎えた瑶子に、頼経は昨夜と変わらず労りのこもった声音で応えた。
「おはよう。よく眠れたか?」
 その問いに、瑶子の居室の隣―控えの間に片隅にいた若い侍女二人が顔を見合わせ、クスリと意味深な笑いを洩らす。暗に初夜を過ごしていない瑶子のことを指して笑い合っているのだ。
 だが、男の頼経は気付いていないのか、瑶子の手前、気付いていても知らぬふりを通しているのかもしれない。そこで、御台所付きとなった侍女頭の菊乃が声を張り上げた。
「朝から何をはしたない。御前であるぞ」
 菊乃は三十前半、現在、御所の奥向きを取り締まる総責任者といっても良い。八年前から御所に上がり、一昨年、その有能さを買われて侍女頭に抜擢された。有力御家人である河越氏にゆかりの者であると聞いている。
―怖いお方。
 と、若い侍女たちからは畏怖されているが、筋を通すところは通しても情理の判らない女ではない。
 その侍女頭からのきつい叱責に、侍女二人は慌てて手をつかえた。
「申し訳ございませぬ」
「ご無礼の段、ご容赦下さいませ」
 たしなめられただけで、片方は涙ぐんでいる。それを一瞥した頼経が菊乃に言った。
「朝から、そう怖い声を出すな。折角の朝だ、夫婦水入らずで過ごしたいゆえ、皆、下がっておれ」
 将軍の命で、若い侍女二人は下がった。ほどなく菊乃が先導して別の侍女たちが数人がかりで膳を運んできた。
 頼経が瑶子を見て笑った。
「今朝は夫婦になって迎える初めての朝ゆえ、共に食事をしたいと思うてな」
「は、はい」
―夫婦になって迎える初めての朝。
 瑶子は頷き、慌てて笑顔を作った。頼経はどういうつもりで、このような言葉を口にするのか理解できない。
 皮肉のつもりなのか、それとも、無意識に口にしているだけなのだろうか。侍女たちが先刻も二人がまだ夫婦になっていないことを皮肉るような笑みを洩らしたばかりだというのに。 
が、窺い見ても、頼経の秀麗な面には穏やかな笑みが浮かんでいるだけで、特に作為はなさそうだ。
「最近の都はいかがか? 私が都を離れたのはもう二十年も前のことになる。京も随分と変わったことであろうな」
 頼経がふる話題はやはり都のことが多かった。共に都生まれということもあるだろうし、まだ鎌倉に慣れぬ妻を気遣ってもいるのだろう。
 頼経の気遣いは理解できたので、瑶子は言葉を選びながら応えた。
「最近は上皇さまのご威光で、都大路も整備が進みました。そのため、人や荷馬もよく行き交い、都は以前にも増して賑わいを極めております」
「そうか、私は襁褓(むつき)の取れぬ時分に都を去ったゆえ、現実には都のことは何も憶えておらぬ。いつか、そなたと共に都にも行ってみたい」
 頼経の表情はどこまでも屈託ない。気のせいか、昨夜は気になったまなざしの暗さはなく、瞳は凪いだ春の空のように澄んでいる。
 今は朝ゆえ、明るい陽の光のせいで、そのように見えるのだろう。瑶子はそんな風に思った。
 頼経はその後も専ら都のことを話したがった。その都には瑶子が泣く泣く別れてきた想い人惟章がいる。惟章に今度逢えるのはいつのことになるのか。考えていると、その場に突っ伏して泣きたくなった。
 だが、今の我が身は将軍家御台所、頼経の妻なのだ。良人の前では良き妻でなければならない。ましてや、他の男を想い泣くなど、できるはずもない。
「―子、瑶子」
 名を呼ばれているのに気付き、瑶子は我に戻った。
「え? あ、はい」
 狼狽え頼経を見上げると、眼前の良人がどこか淋しげに見つめ返していた。
「先刻から、そなたは私の話をまるで聞いておらぬ」
「あの、何の話でございましたか」
「御所の庭にも見事な柿の樹があるという話だ。秋にはたくさんの実がなるゆえ、また誰ぞに取らせて食べるとしよう。そのように話しておったのだ」
 大方、昨夜の閨の中での会話―幼時に瑶子が柿の樹に登って落ちたという話を憶えて言っているのだ。
 瑶子は頷いた。
「それは愉しみにございます」
 頼経は肩を竦めた。
「我が妻は心ここにあらずだな。さては、何か都に置き忘れてきたものに心囚われておるか」
「―!」
 その時、汁物の碗を取り上げようとしていた瑶子の手から碗がすべり落ちた。碗は床にころがり落ち、木の床を濡らす。
「私ってば、申し訳ございません。ご無礼を致しました」
 慌てて立ち上がろうとするのに、控えの間にいた菊乃がすぐに飛んできた。
「御台さまはどうかお気になさらず。ここは私めが致します」
「済まぬ」
 頬が熱い。頼経はさぞ粗忽な女だと呆れているに違いない。菊乃は鮮やかな手つきでその場を片付け、代わりの汁物を運ぶように台盤所に申しつけにいった。
「菊乃のような者が側にいてくれて、私も心強い限りです」
 頼経が頷く。
「輿入れに際しては、京から付き従う女房の数は極力少なくするように執権が要請したと聞いているが、やはり、それでは、そなたが頼りない心持ちであろう。せめて母代わりの乳母なりと連れて参れば良かったものを」
 乳母と聞いて、また瑶子の心がドキンと跳ねた。
「いえ、乳母は寄る年波で、ここのところ持病の神経痛が酷くなる一方でしたので、私の方が都に置いてきたのです。本人は輿入れに伴い鎌倉に下ると申してきかなかったのですけれど」
 それは真実だ。惟章の母早苗は瑶子を我が娘のように大切に育ててくれた。だから、輿入れにも絶対についてゆくと間際まで言い張っていたのだ。が、早苗の体調がそれを許さなかった。養い君の瑶子も晴れて嫁いだからには、ここらでもう悠々自適の余生を送って欲しい気持ちもあり、涙を呑んで長年側にいてくれた乳母とも別れたのだ。
 頼経は何の疑いもなく頷いた。
「そうか、乳母のためには、その方が良かろう」
 できれば惟章に関係する話は避けたい。瑶子はさりげなく話を変えて続けた。
「確かに都から連れてきた女房は少ないですが、菊乃のように心きいた者を付けて下さいましたから、何の心配もしておりません」
 更に頼経が訊ねた。
「その乳母というのは、いかほどの歳になるるのだ? 神経痛を病むというからには高齢なのか」
 どうも早苗に興味があるらしい頼経の言葉に、瑶子の背をヒヤリとしたものが走る。早苗とくれば、どうしても乳母子の惟章のことを思い出す。万一、話題がそちらに向かえば、我が身が頼経の前で平静を保てるかどうか自信はない。