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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 瑶子は呆気に取られて頼経を見た。頼経は愉快げに笑いながら、瑶子を見つめた。心なしか、闇色に染まっていた瞳に少し光が戻っているような気がする。
「なるほど、柿が食べてと誘ってきたというのか。面白き姫だな、そなたは」
 頼経が呟き、つと手を伸ばした。
「このような小さなアザを気にするところといい、意外に面白きところ、優しきことろ、―似ているな」
 最後の呟きは理解不能なまま、頼経は瑶子の肩の傷痕をそっと指でなぞり、そのまま再び彼女を褥に押し倒した。ふいに男の唇が小さな紅いアザに押し当てられ、瑶子はひっと悲鳴を上げそうになった。
 肩先に触れる指先はこんなにも相変わらず冷たいのに、何故、唇は裏腹に熱いのか。そんなことを考えている中に、更に胸許の緩んだ夜着を引き下ろされ、乳房が半分ほど丸見えになった。薄紅色の突起が見えるか見えないかまでのきわどい部分をまた熱い燃えるような感触が這い回る。
 次いで頼経の美しい面が迫ってきた。
―口づけられる!
 そう思った瞬間、脳裡に浮かんだのはやはり都にいる恋人惟章の顔だった。京を発つ三日前に交わした切ない別離、烈しい口づけ。次々と恋人の腕の中で過ごした時間を思い出し、瑶子は混乱状態のまま、のしかかった頼経の身体を両手で力一杯押した。
「いやっ」
 身を起こし逃れるように後方へ身を退いた妻を頼経は静かな瞳で見た。
「私は無理強いはしない。そなたが嫌だというのなら、何もしないから」
 瑶子だとて、我が身に課せられた使命はよくよく理解していた。容色よりも今回の花嫁選びは無事に出産できるかどうかが当の花嫁を決める最懸案案事項だったと聞かされている。自分が子を産むためだけに迎えられる妻といわれているような気がして、あまりにもあからさますぎると若い娘には恥ずかしくもあり哀しくもあった。
 だが、言い換えれば、幕府はそこまで将軍の後継者を望んでいるということでもあった。褥を共にしなければ、子は産まれないということも漠然とした男女の知識から知っている。
「そなたの幼い頃の話を聞いた時、久々に笑ったよ、こんなにも心の底から笑ったのは四年ぶりだ。私たちは政略で結ばれた夫婦だが、できるならば私は共に尊敬し労り合う世の常の良人と妻のようになりたいと考えている。たった今、寝所でそなたと話してみて、こういう娘であれば、あながちその願いも無理ではないかもしれないと思ったのだが」
 そこで頼経は首を振った。
「私の気持ちを一方的にそなたに押しつけるつもりはない。それに、誰かを強く求めることは、反面、とても怖ろしいことであることも私は知っている。強く求めたものが手に入った時、人は歓ぶが、失ったときの哀しみや絶望は計り知れない。手に入れたときの歓びをはるかに上回るほどに」
 頼経が立ち上がった。見上げる彼の瞳の闇がまた濃くなったように見える。
「京から長旅をしてきて、慣れぬ鎌倉での日々で疲れておろう。早く寝みなさい」
 それらの言葉を瑶子はまだ混乱したままで聞いていた。己れに課せられた将軍の御子を産むということを頭では理解しているものの、覚悟しているのとその身に現実に受け容れるのとは違う。加えて、瑶子には遠く離れた都にいる恋人惟章の存在もあった。
 頼経を初夜の床で拒絶してしまったことは、瑶子自身も衝撃だった。惟章ではなく他の男―良人となる頼経に抱かれるのは瑶子自身、覚悟していたことだ。けれど、土壇場になって頼経を拒んでしまったのは失態としかいえない。
「申し訳ございませんっ」
 瑶子は両手をついて、その場に頭を垂れた。あまりの情けなさに熱いものが溢れそうになっている。更に初めて男に触れられなければならないという初夜に、本能的な恐怖も感じていた。いまだ小刻みに震えていることに、瑶子自身は気付いていない。
 そんな瑶子を頼経は感情の窺えぬ瞳で見下ろしていたかと思うと、そっと屈み込み手を伸ばして引き寄せた。瞬時に瑶子が身を固くするのを見て、綺麗な面に苦笑が浮かぶ。
「私が触れるだけで、そんなに怖いのか?」
「申し訳―」
 謝りかけた瑶子はつい、いつもの自分が出てしまった。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
 いったん溢れ出した涙は止まらず、瑶子は大粒の涙を零して泣いた。
「泣き虫なところも、すぐに泣いたり笑ったりするところまで―こんなにも似ているとはな」
 また意味の判らないことを頼経は呟いた。だが、とりあえず怒ってはいないらしいことに、瑶子はホッとする。
「瑶子、よく聞きなさい。私は再婚とはいえ、まだ二十歳だし、そなたに至っては十七歳だ。私たちはまだ若い。私は先ほども言ったように、嫌がる女を手籠めにして歓ぶ趣味もない。そなたが嫌だというのであれば、こうして抱きしめる以上のことはけしてしないと誓っても良い。いずれ、そなたが身も心も私に素直に開いてくれるまで、私は待てる自信はある。だから、怖がらないでくれ」
 幼子に言い聞かせるように言い、瑶子の漆黒の髪を優しい手が撫でる。穏やかな深い声を瑶子は逞しい腕に守られるように抱かれて聞いていた。その優しい手触りが心地良くて、何故か頼経の手が離れた時、淋しいと思ってしまったほどだった。
「私がいては眠れないだろうからね」
 頼経は最後まで気遣いを忘れなかった。長身の良人の姿が襖の向こうに消えた刹那、瑶子の全身に漲っていた緊張が解けた。言葉とどおり、頼経はどこまでも紳士であった。
 公卿の中にも嫌がる無抵抗な女を腕力と権力で無理にねじ伏せ身体を欲しいままに陵辱する男はごまんといる。やれ和歌だ管弦だと雅ぶっている表の顔とは別に、卑しい本能のままに女を犯す獣の顔を持っているのだ。
 そして、そういう裏の顔を持つ男の方が多いのだと乳母の早苗から聞いていたのに、頼経はそんな卑劣なふるまいは一切しなかった。そんな理解のある男を良人に持てた我が身は女として恵まれている。
 そこで、瑶子は奇妙な心もちになっているのを感じた。我が身が心に想うは惟章だけ。だからこそ、今宵、頼経に抱かれることなく済んだのはむしろ幸いだった。宿命と諦めてはいても、次に惟章にあいまみえるときも、これまでの綺麗なままの自分でいたい。
 そう何より願っているはずなのに、頼経が自分に触れなかったことについて安堵だけではない何かを感じている。それは言葉にするとしたら、恐らく?落胆?。肩すかしを喰らわされたような気持ちといえば正しいのかもしれない。
 瑶子はその夜、一人で眠るには大きすぎる豪奢な夜具で悶々として過ごすことになった。朝まで眠れず、幾度も床の中で寝返りを打った。雪は一晩中、降り続いたらしく、雪の降る音があたかも心の奥底にまで響いてくるようであった。
 しんしんと雪は庭に降り積もり、瑶子の心にも積もってゆく。瑶子の心をその夜、覆い尽くしたのは何という名の感情であったのか。それは瑶子自身にも計り知れなかった。
 実際には雪の降る音などありはしない、降り積もった雪がすべての外界の物音を吸い取ってしまうから、かえって静けさが際立つのが雪の夜なのだ。その雪の夜特有の静けさがともすれば身に迫ってくるのを瑶子は感じていた。