華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
「構いませぬ。姫さま、口はばったい言い様ですが、私は姫さまを我が子と思うてお育てして参りしました。良人は既になく、三人の我が子らもそれぞれ片付き、嫡男はこちらの殿から可愛がって頂いております。私がこの世に思い残すこと、やり遂げねばならぬことはもう何もございません。もし、心残りがあるとすれば、それは泣く泣く北条に嫁いでゆかれる姫さまをなすすべもなく見送るしかないこと。さりながら、姫さまに恋い慕う殿御がおいでとあれば、私の心は決まっておりまする」
さつきが楓の手を握った。その手のひらはどこまでも温かく慈愛に満ちていた。
「さあ、お行きなされませ。私がして差し上げられるのはここまでにございます。どうかこれより後もお健やかに、心で想われるお方と末永く添い遂げられますようにお祈りしております」
さつきはその場に跪いて、頭を垂れていた。
「母は己の身よりも子の幸せを願うものにございます。さあ、見つからぬ中にお行き下りませ」
「さつき―」
楓はそれでもまだ迷いのある瞳でさつきを見ていた。
「早く! 行くのです」
楓にはそれが極楽にいる顔も知らぬ生母東子の声と重なった。その声に背を押されるかのように、楓は部屋を出た。短い階(きざはし)を降りた先には草履が用意されていた。楓はそれを素早く突っかけ、周囲を窺った。
まだ誰もいない。さつきが飲ませた眠り薬が効いて、警護の者たちは眠り込んでいるのだろうか。楓はもう迷わなかった。庭に植わった樹木が濃い影を落とす中、一心に走り出した。
ひそやかな夜のしじまに、波の打ち寄せる音だけが低く響いている。女人の繊細な眉のような月が危うげに紫紺の空に掛かかり、大海原の上には銀砂子を撒いたような夜空が一杯にひろがっていた。
月明かりが白い砂浜を銀色に染め上げていた。すべてが月光に濡れ、光り輝くような美しい夜、その男は浜辺にひっそりと佇んでいた。
「時繁さま」
名を呼ぶと、彼はつと振り向いた。その端正な顔に驚愕の色が浮かぶのに、楓は落胆した。
やはり、来てはいけなかったのだろうか。屋敷を抜け出すこと自体は造作もなかった。屋敷をぐるりと取り囲む築地塀に一箇所だけ人ひとりがやっと通れる穴が空いている。それは楓が子どもの頃に見つけた秘密の抜け穴になった。
町に出たいときには、よくその穴を利用したものだ。もっとも、小柄な楓ならばこそで、大人の男なら通れないだろうが。そして、その抜け穴の存在は父も知らない。普段は生い茂った低木に隠れて見えない位置にあるのだ。
抜け穴から屋敷を出て、そのまま町を通り抜けて浜辺まで来たのだが―。当の時繁は確かにここで待っていてくれたものの、楓と再会しても嬉しそうどころか、迷惑そうに見えた。
―私ってば、どこまで浅はかなの。時繁さまが幾ら来ても良いとおっしゃったからといって、言葉どおりに信じて厚かましく押しかけるなんて。
嫌われるのも迷惑だと思われるのも辛すぎた。逢えない一ヶ月余りもの間、時繁に対する恋心は自分で思う以上に深く烈しいものになりすぎていた。
彼の顔を見た刹那、自分がけして歓迎されていないことが判った。楓は一歩下がった。大好きな男に嫌われるよりはいっそのこと、このまま誰も知らない場所に行って、海に入って消えてしまいたい。
そう思って去ろうとした楓は、突如として背後から抱きすくめられた。
熱い吐息混じりの声が耳朶をくすぐる。
「本当に来るとは思わなかった」
そのひと言が余計に楓の哀しみを誘う。楓は厭々をするように身を捩った。すると背後から楓を抱いていた腕が緩まった。
「ごめんなさい、私が愚かでした」
楓はともすれば溢れそうになる涙をまたたきで散らした。
「やはり、来るべきではなかったのです」
と、楓の小さな身体はそのままくるりと回され、時繁と向き合う形になった。
「何を言っている?」
時繁が覗き込もうとするのに、楓は下を向いたまま彼を見ようともしない。
「姫、俺を見てくれ」
だが、楓は頑なにうつむいたままだ。焦れたのか、時繁が楓の頬に両手を添えて、そっと仰のかせた。
「俺はまだあんたの名前も知らない。それでも、忘れられなかった。ずっと毎日、ここに来て、来るはずもないあんたを待っていたんだ。流石に最近はそんな自分が馬鹿だと思えるようになっていたよ」
楓は声を震わせた。
「時繁さまも私を待っていて下さったの?」
時繁が何度も頷いた。楓の大きな黒い瞳から大粒の澄んだ涙が転がり落ちた。
「私もずっと時繁さまを忘れられなくて、ひとめで良いから逢いたいと願い続けていました。まさか、あなたも私と一緒の気持ちだとは思っていなくて」
「親父さんは説得できなかったのか?」
それは問いかけの形ではあったが、確認でしかない。楓は頷いた。
時繁はフウーっと大息を吐いた。
「俺はそのことを歓ぶべきかどうか。本音を言えば、こうして、あんたに再び逢えたのも親父さんが諦めなかったからだが」
彼のまなざしの先には星を撒いたような紫紺の空があった。
「俺はずっと、あんたが幸せになることを願っていた。女狂いと評判のイカレた男だが、それでも北条の息子だからな。あんたのためには北条との縁組みがまとまった方が良いのだと判っていながら、心のどこかでは、あんたがまた以前のように屋敷を抜け出してここに来てくれれば良いと願っていた。どこまでも卑怯で自分勝手な男だ」
「私の幸せは」
涙をぬぐって口にした楓を時繁が見た。
「私の幸せは好いた男(ひと)の傍にしかありません」
熱い焔を孕んだ二つのまなざしが静かな空間で火花を散らしながらもつれ合った。
「その世にも果報な男は俺だと自惚れても良いのか、姫」
逞しい腕に抱き寄せられながら、楓は呟いた。
「楓と呼んで下さい」
時繁に手を引かれて連れてゆかれたのは、さほど遠くない場所にある小さな小屋だった。周囲に他には人家はなく、どうやらここにポツンと一軒だけ建っているようだ。
外見はどこにでもあるような漁師の住まう小屋で、小屋内も極めて質素な造りだ。少なくとも頼朝随一の側近といわれる河越恒正の屋敷に比べれば、御殿と厩舎ほどの違いがあった。
それでも時繁の几帳面な性格を物語るかのように、屋内はきちんと片付けられ、雑然とした印象はない。
時繁がのべた薄い夜具に並んで横たわり、楓は彼を無心に見上げていた。覆い被さってきた彼も楓も何一つ身につけていない、生まれたままの姿だ。
夜具の周囲には二人の着物や帯、下着が無造作に散らばっていた。
「俺はこれから楓に痛みを与えるかもしれない。できるだけ優しくするつもりだが、少しの間、辛抱できるか?」
楓は微笑んで頷いた。北条時晴との婚礼が具体的になった時、さつきから祝言の夜、夫婦となった男女の間にどのようなことが起こるのかは聞かされた。しかし、それは肝心なところは曖昧にぼかして伝えられた知識で、実のところ、具体的には何も理解できていない。
時繁を好きだから、祝言を控えた身で屋敷を飛び出した。けれど、正直、ここまでは想像したこともなかったし、再会した夜、すぐに彼が自分を抱くとは考えてみなかった。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ