華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
だからこそ乳母を通じて毎日のように目通りを願っていたのだが、今更、過ぎたことを口にしても利はない。また、今夜は父の機嫌は損ねない方が賢明だ。
「まずは父上から、お話をお聞かせ下さいませ」
淑やかに促すと、恒正は満足げに頷いた。
「我が娘ながら、ほんにそなたは美しうなった。これならば、北条の時晴どのも満足して下されよう」
その瞬間、楓の眼が射るように恒正に向けられた。
「父上、今、何と、何とおっしゃいましたか?」
恒正は至極上機嫌で繰り返した。
「そなたの嫁入りが明日に決まった。夕刻、北条家から迎えの輿が寄越される。時晴どのは既に一度、御所で遠くからそなたを見かけたことがあるそうでの、祝言にもいたく乗り気だとのことじゃ。本来ならば六月にというところを早めて欲しいと仰せになるほどの執心ぶり。加えて、わしとしてもそなたがまた妙な心を起こさぬ中にさっさと嫁がせてしまうが良いと思うて、急遽、予定が早まった。そなたもそのつもりでおるように」
「父上、私は―」
楓が桜色の唇を戦慄(わなな)かせると、恒正が覆い被せるように強い口調で言った。
「何事もそなたのためじゃ。時晴どのは庶子とはいえ、時政どのがご子息たちの中でもとりわけ眼をかけておられる。その愛息の許に嫁げば、そなたの将来は安泰というもの。この上は良人に愛され、よく仕え、良き妻となり母となるように心がけよ」
その断固とした表情からは、もう何を言ったところで聞く耳は持たないと告げていた。蒼白になった楓を一人残し、恒正は部屋を出ていった。表に控えていたさつきに何か小声で指図しているのを見れば、また逃げ出さないようにしっかりと見張るようにと言いつけているのかもしれない。
何故、こんなことになってしまったのか。まさか六月に予定されていた祝言がふた月も早まるとは思ってもみないことだった。次から次へと涙が溢れて止まらない。
ひとしきり泣いた後、楓は思案に沈んだ。先刻、恒正は北条時晴が既に楓を見知っていると言った。だが、楓自身は時晴を知らない。だからこそ、余計に悪しき噂ばかりの彼の人となりに絶望したのだ。
御所で楓を見かけたというから、恐らくは楓が頼朝の住まいに参上したときにどこかで見かけたのだろう。楓は重臣の娘ということで、頼朝の住まいに上がったことは少なからずある。頼朝やその妻政子、長女大姫、次女三幡姫に拝謁し、政子直々に小袖と帯を賜ったことさえあった。
頼朝やその一族が住まう屋敷一体は?御所?と呼ばれている。いかに頼朝の権威がこの鎌倉では大きいか―有り体にいえば都の帝すから凌ぐほどであるかを示していた。
そこで楓は首を振った。
いや、今はそんなことはどうでも良い。女狂い、当代一の好き者と呼ばれる男なぞ、たとい天地が裂けようとも、楓は受け容れられない。今は心を落ち着かせて今後について対策を考えるべきだ。
その時、扉が音もなく開いた。
「姫さま」
乳母のさつきが丸い塗り盆を捧げ持っていた。
「砂糖湯をお持ちしました」
「ありがとう」
楓は微笑もうとしたけれど、どうしても無理があった。泣き腫らした眼は恐らく真っ赤だろう。そんな楓を痛ましげに見つめ、さつきはうつむいた。その様子には何かを躊躇うそぶりがかいま見える。実の母のようにいつも楓に対しては良きにつけ悪しきにつけ、はっきりと物を言う彼女にしては珍しいと思った。
「明日は婚礼だというのに、そのように泣いてばかりおられては」
漸く紡いだ言葉は祝言前らしいものだった。しかし、さつきは小さく首を振り、吐息と共に今度はまったく別のことを口にした。
「姫さまが北条家の若さまとのご縁組みをそこまでお厭いになる理由、真に時晴さまがおいやだから、それだけなのでしょうか?」
その瞬間も、楓の脳裡に真っ先に浮かんだのは時繁の整った面だった。しかし、たとえ母とも信頼するさつきにだとて、時繁のことは話せない。頑なに口をつぐんだ楓に対して、さつきはまた小さな溜息を洩らした。
「私は姫さまの乳母とはいえ、あくまでもこのお屋敷にお仕えする使用人でございます。その分際で口にするのもはばかられることゆえとこれまで胸におさめて参りましたが、このひと月の姫さまの憔悴ぶり、到底見てはおられませんでした。実の母なれば必ずや娘に告げたであろうことをこの際、はきと申し上げまする」
燭台の灯火だけの薄い闇が満たす室内で、さつきの眼が射貫くように楓を見つめていた。
「食が進まず、しまいには何も食べられぬようになり、一見病かと見紛う症状、そんな病の名を私は一つだけ存じております」
薄い闇の中、さつきと楓の視線が交わった。
「それは恋というものにございます。私自身、申し上げるのも恥ずかしいことながら、亡き良人との馴れ初めはそのようなものでしたし、下の娘も好いた男と結ばれました。ゆえに、身に憶えのある病なのです」
「―」
それでも、楓は何も言わなかった。さつきは力強さを感じさせる声で言った。
「姫さま、もし万が一、私の推量が当たっておりますれば、私は姫さまの生まれて初めての恋を力の限り応援致します」
楓は力ない声で問うた。
「何故、そなたはそのように考えたの?」
さつきはやや声を潜めた。
「数日前、薬師がおいでになる前までは私も姫さまが何ぞ病に取りつかれておいでかと思いましたが、姫さまのお身体には何の障りもないとお聞きした折、恐らくは恋の病なのではと拝察仕ったのです」
なおも無言の楓にさつきはにじり寄った。
「教えて下さいませんか、姫さま。姫さまのお心には誰ぞ別の殿御がおいでなのでございますね?」
永遠に続くかと思われる沈黙の後、楓はコクンと頷いた。さつきからはホウっと溜息が洩れた。覚悟はしていても、心のどこかでは間違いであることを祈っていたのだろう。
だが、さつきは昔から切り替えも頭の回転も速い女だった。乳母は更に膝をいざり進め、声を落とした。
「どこのどなたさまかをお伺いしてもよろしいのでしょうか?」
これには小さくかぶりを振ることで応えた。さつきは予め予測していたらしく、今度は落胆した様子ではなかった。
彼女はさっと立ち上がると、そのまま部屋を突っ切り、扉に手を掛けた。
「今宵は見張りの者も手薄になっております。殿も時ここに至り、姫さまがご観念なさったと思し召したのでございましょう。むろん、わずかながらも警護はおりますれど、その者たは私が先ほど軽い眠り薬を潜ませた酒を差し入れと称してふるもうて参りました。ですから、今頃は白川夜船で夢見心地かと」
そこから先は言われずとも知れた。さつきは、この忠実無比な乳母は養い君楓をひそに逃すつもりなのだ。
楓は烈しく首を振った。
「それはできぬ! もし祝言を明日に控えた今となって、そなたが私を逃したと知れば、父上が激怒なさる。最悪の場合、そなたの生命をもって詫びることになるぞ。そなたはそれでも良いというのか?」
恒正は長年、忠勤を励んできたさつきの生命まで望みはしないだろうが、北条家の手前、彼女の罪を問わないわけにはいかない。その時、さつきの身に危険が及ぶことは必定だ。
さつきは決然として言い切った。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ