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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 庭には純白の雪がかなり積もっていた。眼にも鮮やかな山茶花(さざんか)の紅色と艶やかな緑の葉も雪をうっすらと戴いている。
―今頃、惟章はどうしているのかしら。
 政略結婚により、無残にも引き裂かれてしまった恋人藤原惟章は瑶子の乳母早苗の一人息子であった。一つ上のこの惟章とは主従の間柄とはいえ、実の兄妹のようにして育ち、いつしかそれが幼い恋から本物の愛に変わった。
 主人の娘とはいえ、瑶子は末子であり、惟章は末流ながら藤原北家の流れを汲む血筋でもある。将来、父が彼をもう少し取り立ててくれて官職にでもつけば、惟章との結婚はあながち不可能とはいえなかった。しかしながら、瑶子のその儚い期待は見事に打ち砕かれた。
 瑶子が四代将軍の正室候補としてその名が上がったときから、惟章は遠い存在になった。それまで末娘ということで、さして気にも留められていなかった瑶子の身辺がそのときから俄に警護が厳重になり、特に若い男がその近くに寄ることは許されなくなった。惟章は乳母子ということで、父も警戒はしていなかった。それが幸いして、二人は人眼を忍んで恋を育んでいったのだ。
 風に運ばれ、白い花びらが舞うように通り過ぎてゆく。その儚い美しさに、瑶子は都にいるはずの恋人を重ね、そっと涙ぐんだ。
 その時、後ろからそっと肩に置かれた手があった。物想いから現実に引き戻され、瑶子はハッとして振り向く。間近で見ると、頼経の美男ぶりは更に際立っていた。これ以上整いようがないのではというほどの端正な面立ちは、そこそこ美男であった惟章など足許にも寄れない。
 そうやって無意識に良人となるべき男と恋人を比べてしまう自分に気付き、瑶子は蒼褪めた。
「どうした? 外は寒いのに」
 その時、瑶子は違和感を憶えた。何故なのか、この男は物言いも優しく、まなざしも穏やかなのに、何故か触れると冷たい雪のようだ。傍目には嫁いだばかりの新妻を気遣っているように見えるだろうし、事実、そうなのだろうが、当の瑶子は労られているというよりは、氷のような視線に晒されているようで息苦しささえ感じてしまう。
「雪を見ておりました」
「雪、か」
 瑶子の言葉に、頼経も真似るように夜空を見上げる。漆黒の空から絶え間なく落ちてくる花びらを見つめる眼は、その天(そら)と同様に闇色に染まっていた。
「私は雪は嫌いだ」
 何故にと訊こうとしたまさにその瞬間、頼経がふわりと微笑んだ。哀しげな、本当に一瞬で溶けてしまいそうなほど儚げな笑みに、何故か瑶子は胸をつかれた。
 瑶子の心など知らぬげに、頼経は依然として雪を見つめたまま続けた。
「大切なひとが亡くなった日、その年初めての雪が降った。だから、今でも雪は嫌いなのだよ。まるで雪とともに彼のひとの魂があの世に旅立ってしまったようで」
「さようでございますか」
 瑶子もその大切なひとというのがそも誰であるかはすぐに判った。頼経の最初の妻であり、十六歳も年上でありながら、頼経の寵愛を一身に集めて子までなした女人。父や母からは、その竹御所に劣らぬように将軍の寵愛を得てこそ初めて真の御台所となれるのだとくどいほど言い聞かされた。
 だが、最初から瑶子には先妻と競うつもりは毛頭なかった。何より、瑶子にもまた惟章という他人には言えない大切な恋人がいる。互いにあい想う人がいながらも政略で夫婦とならなければならなかった頼経をむしろ気の毒にも思っていたし、同士のような妙な親近感をも抱いていた。
「御所さまのお気持ちは何となくですが、お察しできるような気がします。この美しい雪がかえって御所さまの哀しみをいや増すのでしょう。誰でも、大切な人への想いをそのように容易く捨て去ることはできません」
 瑶子は頼経の気持ちに、今の惟章を想う我が身の恋心を重ねたのだ。が、頼経がそんなことを知るはずもない。闇に塗り込められた切れ長の美しい双眸がかすかにまたたいた。
「愕いた。新婚初夜にこのようなことを申せば、大抵の女は不機嫌な顔をするかと思うたが」
 頼経もまた?大切なひと?というのが瑶子に誰であるかはすぐに判ると思っていたようだ。
 次の瞬間、瑶子は思わず小さな悲鳴を上げた。身体がふわりと宙に浮いた―と思ったのは、頼経に抱き上げられたからだった。
「このようななりで外にいたのでは、身体が冷えてしまう」
 頼経に抱かれた瑶子は咄嗟のことに愕いて身動きもできなかった。外見は優男に見えるのに、抱かれた胸板も厚く筋肉もよくついていて、頼経はやはり公卿ではなく武士であった。
 彼は寝所まで運ぶと、瑶子を静かに豪奢にな褥に降ろした。そのまま上から覆い被さってくる男を、瑶子は茫然と見上げていた。頼経も瑶子も白一色の夜着一枚きりだ。前結びになった帯をシュルッと解かれ、胸許がくつろげられる。
 両肩が露わにされた刹那、真冬の冷気が素肌に突き刺さった。頼経の大きな手がつうーっと剥き出しの肩を撫でる。
 と、瑶子が?あ?と声を上げた。
「駄目!」
 慌てて身を起こした瑶子を頼経が愕いたように見ている。
「どうかしたのか?」
「あの、私」
 瑶子はうつむき、声を詰まらせた。
「肩というか背中に傷痕があるのです」
 頼経が不思議そうな表情をするので、瑶子は思い切って事情を話した。
 五歳の頃、お転婆が高じて木登りをして、見事に木から落ちて大けがをしたこと。そのときの怪我が元で跡が残り、醜いアザのようになってしまったこと。
 瑶子はしゅんとして言った。
「それほど大きくはないのですが、アザのようになってしまいました。この縁組みが持ち上がった時、私は父や母に言ったのです。たとえ小さくても身体にアザがあるような娘が畏れ多くも天下の将軍さまのおん許には上がれないと。父や母もそのことは幕府の方々に申し上げたらしいのですが」
 いずれ御台所となるべき姫は早急に御子を産む健康体であることが優先されたため、小さなアザのことなどは後回しにされたのだ。
 流石にそんな露骨なことを寝所で口に出すのもはばかられた。頼経はすべてを承知したのか、穏やかな顔で話を聞いていた。
「なるほど、だが、このような傷痕はある中にも入るまい」
 今、瑶子の寝衣の帯は半ばまで解かれている。肩は露出しているものの、胸許は開いていない状態だ。とはいえ、帯が緩んだままなので、瑶子は両手でしっかりと胸許を押さえてはいた。
「申し訳ございませんでした。このようなことはやはり、事前に申し上げるべきことでした」
 瑶子が改めて詫びるのに、頼経は小さく首を振った。そして、改めて訊ねてくる。
「何ゆえ、公家の姫が木登りなぞしたのだ?」
 瑶子はその親しげな問いかけに、つい口を滑らせた。
「美味しそうな柿の実がたんと成っていたからでございます。ほれ、このように大きくなった柿がそれこそ冗談でなく鈴なりに。いかにも甘くて汁気がたっぷりとあって、もう下から見上げているだけで、柿が?食べて?と言っているように思えて。気が付いたら、夢中になって木によじ登っていたのですわ」
 得意げに身振り手振りで幼い頃の武勇談を語り終えたその時、頼経がプッと吹き出した。後はもう我慢できないというほど声を出して笑っている。