華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
「あなたを連れて逃げるなんて、天地が割れてもできないってことも、俺たちがこの世が続く気限り夫婦(めおと)にはなれないことも」
でも、諦め切れない。
はきとは口に出せなかった呟きが儚く風に散って消えた。
瑶子から一段と烈しい嗚咽が洩れた。
「だって、私は幕府に捧げられる生贄なのだもの。私が逃げたりしたら、お父さまや皆に迷惑がかかってしまう」
「瑶子」
惟章が再び強く抱きしめてくる。あたかも今、ここで手放してしまったら、二度と取り戻せないとでもいうかのように所有欲剥き出しだ。だが、想う人にここまで強く想われるかと思えば、瑶子は嬉しい。
「どうか、必ず元気でいて下さい。俺はどんなことがあっても、鎌倉に行きます。姫に逢いにいきますから」
うんうんと瑶子は幾度も頷いた。
そっと頤(あご)に指先を添えられ、上向かされる。温かくてやわらかな唇が最初は額に、次は唇に触れた。
いつもこうだ。惟章と口づけを交わすのは初めてではないけれど、彼はいつも情熱的に瑶子を求めてくる。最初は瑶子を怖がらせないように口づけもそっと蝶の羽根が掠めるほどの優しいもので、それが次第に深くなってゆく。
けれど、今だけはその男の優しさが少しもの足りず、もどかしい。もっと烈しく奪い尽くすように口づけて欲しいと願ってしまうのは、自分がはしたない娘だからなのか。瑶子の心を見透かすかのように、口づけはやはりそれだけでは終わらなかった。
一度は離れた彼の唇で再び紅い唇を塞がれた。紅を塗るようにゆっくりと上唇、次いで下唇を舐められ、瑶子は恐る恐る口を開く。すると惟章の舌が大胆にもすべり込んできて、怯える瑶子の舌にそっと絡みついた。
最初は戸惑いがちだった瑶子も次第に惟章の愛撫に応えるようになる。二人は舌を絡め合い烈しい口づけを続けた。
いかほど経ったのか。時間にしてはさほど経過していないであろう。惟章が名残惜しげに口づけを解いた時、瑶子の黒い瞳は長い口づけのために潤み、紅唇は腫れたように膨らんでいた。今にもほろこびそうな花びらのような愛らしい唇を眺め、惟章は未練を振り切るかのように首を振る。
「このまま、あなたをここで奪ってしまえたら、どんなに幸せだろう」
だが、それも叶わぬことだ。瑶子はこれから別の男に嫁す身なのだ。今ここで祝言を間近に控えた彼女を穢すことは単に瑶子の名誉を傷つけるだけでなく、幕府に対峙する京方の体面をも著しく損なうことになる。
瑶子がしゃくり上げながら言った。
「ここでこのまま死にたい。惟章と離れるくらいなら」
惟章は瑶子の髪を愛おしげに撫で、彼女が泣き止むまで辛抱強く待ち、泣き止んだ彼女と眼線を合わせた。
「約束して下さい。何が起ころうと、絶対に自ら生命を棄てたりはしないで。俺は必ずあなたに逢いに鎌倉に行きますから。だから、今度逢うときも俺の大好きなあなたの笑顔を見せて下さいね?」
瑶子はコクコクと頷く。惟章は誠実な男だ、きっと言葉どおり、鎌倉に逢いにきてくれるだろう。けれど、その時―次に彼に逢う時、瑶子はもう今のままの無垢な姫ではない。惟章ではない別の男のものになっているはずだ。そんな他の男に穢されてしまった自分がどのような表情(かお)をして惟章に逢えるというのか。
瑶子の想いを察したのか、惟章が優しく微笑んだ。
「たとえ姫さまが誰の妻になろうと、俺は生涯、我が心の妻はあなただけだと思っています。だから、心を強く持って鎌倉に行って下さい」
惟章の真摯な瞳に、それ以上の我が儘は言えなかった。幾ら願おうとも、乳兄弟である彼と主筋の姫である自分が添い遂げられる可能性はない。しかも、我が身はもう三年も前に結婚の決まった許婚(いいなずけ)がいるのだから。
「待ってるわ。何があっても生命を無駄にせず、鎌倉で生きて見せるから。だから、惟章も必ず逢いにきてね」
瑶子は懐から小さな巾着を取り出した。美しい錦布で作られたそれには、生まれたときから肌身離さず身につけている守り仏が入っている。
「これを私の代わりに持っていて」
背伸びして惟章の首にかけてやる。
涙で最後まで言えなかった。後は男の逞しい腕に引き寄せられ抱き込まれ、また烈しい口づけを重ねた。嘉?二年(一二三七年)、瑶子は十七歳を迎える直前の冬の初めのことだった。
雪の日の輿入れ
その日、鎌倉は宵から降り始めた雪が止むどころか、ますます烈しくなっていた。その降り止まぬ雪の中、白無垢を纏った花嫁を乗せた輿が静々と進む。この花嫁御寮がはるばる京から長旅を重ねて漸く鎌倉入りしたのはひと月前のことであった。
そして年明けを待った睦月の半ば、鎌倉御所の大広間で第四代将軍藤原頼経と京都から来た瑶子姫の華燭の典が厳かに執り行われた。婚約者同士とはいえ、正式な婚儀が済むまで同じ屋根の下に暮らすのは外聞が悪いということで、婚儀まで瑶子の身柄は執権北条泰時の屋敷で一時預かりという形になっていた。
そこで一ヶ月を暮らし、今宵、瑶子はいよいよ晴れの日を迎えるべく輿の人となった。瑶子は親幕派の公卿藤原親能(ちかよし)の末子である。親能はこれまで京の朝廷にあり、終始幕府に好意的な態度を貫いていた。そんなところから、?鎌倉どの?と呼ばれる幕府の頂く将軍と親能の末娘の婚姻が浮上したのであった。もとより、政治的思惑で整った縁組みであることは間違いなかった。
一方、婿君となる将軍頼経は今年、二十歳になったところである。とはいえ、この年若い将軍は初婚ではなく再婚である。頼経は四年前に最初の妻竹御所を亡くした寡夫であった。竹御所は二代将軍頼家の息女であり、頼経より十六歳も年上の妻であった。こちらも政略的結婚であるのは明白だった。しかし、意外にもこの誰が見ても到底上手くいくとは思えなかった結婚は上首尾に運んだ。
若く初々しい美貌の竹御所は頼経と並んでも遜色なく、頼経は初めて触れた女性ともいえる年上の妻に夢中になった。今でも二人の仲睦まじさや頼経の竹御所に対する寵愛の深さは語りぐさになっているほどだという。
更に二人の間には子まで産まれたのだ。ただ残念なことに、竹御所は当時としてはかなりの高齢出産であり、また生来、出産に耐えうるほどの健康体ではなかった。そのために出産で生命を落とし、生まれた子も死産という最悪の結果になった。
この熱愛した妻の死後、頼経はふさぎ込みがちになった。赤児のときから将軍として育てられた彼は歳の割に老成したところがあったのが、ますます寡黙になり、笑うこともなくなった。
むろん政務に支障を来すことはないものの、時間があれば居室に引き籠もり、小さな厨子に納めた観音像を放心したように見つめている。その像は他ならぬ頼経が彫ったものだが、その観音像の少し淋しげな顔は亡くなった竹御所に生き写しだと誰もが知っていた。
竹御所の一年の喪が明けた頃から、頼経に再婚を進める話がしきりに取り沙汰されるようになった。執権泰時を初めとした幕府の重臣たちは事があれば、十七歳の将軍に再婚を勧めた。当時の平均寿命はけして長くはなく、殊に将軍という彼の立場を考えれば、一日も早く後継者を儲けるのは頼経の責務でもあった。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ