華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
言外に、これ以上人目に立つのは互いに危険だと告げていた。
時繁の言うとおりである。互いの存在を知ってしまった以上、続けての接触は避けるべきであった。我が身は別にどうなりもしないし、今更どうなろうと構いはしないが、崩御したはずの先帝が生きていたとなれば、世間は大騒ぎになるのは必定だ。安徳帝をまた即位させようと平家の残党やゆかりの者たちが画策しないとも限らない。
そうなれば、先帝は今の妻や子たちとの幸福どころか、生命すらも危うくなる。平家の血を色濃く引く先帝に生きて貰っていては困る人間は京方にも幕府方にもごまんといるだろう。
せっかく生命を長らえた大切な御子をそのような危険にさらすことはできない。
「どうか女院さま、御身お健やかに、いついつまでもお暮らし下さいませ。この時繁、遠くより常に女院さまのお幸せを願っております」
時繁もまた名残惜しげな様子で立ち上がった。
時繁が辞して幾ばくも経たぬ時、徳子は突如として立ち上がった。
「女院さま?」
驚いた右京を尻目に、徳子は立ち上がり法衣の裾を翻して小走りに居間から出た。
短い階を降りて苔むした庭をひた走る。降り積もった雪の冷たさも今は少しも気にならなかった。
「お待ちくださいませ」
右京から背後から蒼白になって追いかけてくるのが判った。
ようよう小さな山門まで来た時、徳子は荒い息を吐きながら叫んだ。
「言仁さま」
それは、けして呼んではならぬ名前であった。時繁は既にかなりの距離を歩いていた。流石に若い男だけはある。長身で脚も長いから、歩幅も大きいのかもしれない。
振り向かぬかと思った時繁がつと立ち止まる。女院の方に向いたと思うと、深々と頭を下げた。やはり、市井に生きていても、その丹精な面立ちには気品があった。生まれ持ったものを人は隠せはしないのだと、女院は今更ながらに思う。
世が世ならば、九重の雲の上に住まうやんごとなき御身―、それが今は小間物の行商をして慎ましやかに暮らしているという。
だが、それで良いのだともまた思う。壇ノ浦で散っていたはずの幼い生命が親切で慈愛に満ちた漁師の夫婦に救われ、立派に成長を遂げた。
どのような姿であろうと、ただ生きていてくれさえすれば良い。それが、身分の高低に拘わらず、母の子に対する願いなのだから。ましてや、死んだはずの我が子は幸せな結婚をし、二人の子まで儲けているというではないか。これ以上、何を望むというのだろう。
顔を上げた時繁の眼にうっすらと光るものが見えたのは気のせいだったろうか。
女院は裸足のままだった。小さな素足が降り積もった雪を踏みしめていた。時繁の視線が動き、その脚を見つめた。彼は何を思ったか引き返してきて、懐から何やら取り出し、女院に差し出した。
「草鞋にございます。妻が編みました。この季節、雪深いこともありますので、いつも予備のものを持っております」
時繁は草鞋をきちんと揃えて、徳子の足下に置いた。徳子は草鞋を見つめた。しっかりとした作りだ、時繁の妻は春風のように暖かく、更に几帳面な良い女に違いない。
女院は彼が置いていった草鞋を履いてみた。彼女のためにあつらえたように丁度良い。熱いものがこみ上げてきて、泣くまいと唇をかみしめて御子の姿を追おうと顔を上げた時、既に時繁の長身の姿は小道の角を曲がって見えなくなっていた。
徳子はただ呆然とその場に立ち尽くしている。
「―ご立派にお健やかにご成長あそばされました。甲斐のなき生命でございましたが、この歳まで生きた意味がございました」
傍らで右京が呟いた。誰がとは言わずとも、その人がそも誰であるかは明らかであった。
「壇ノ浦では、この世には神も仏もない惨いものだと天をお恨みも致しましたが、女院さま、神仏は確かに我ら平家を守って下さったようにございますね」
平家の血を引く安徳帝はいわば、平家の象徴でもあった。平家は壊滅したが、その帝がひそかに生きていたのはせめてもの救いだった。徳子に言葉はなかった。ただ右京の言葉のとおりであると思ったので、静かに頷いただけだ。
一旦は止んでいた雪がまた降り出したらしい。
「濡れては、お身体に触ります。早うに中に入りましょう」
右京がそっと袖を引くのが判っても、徳子はなかなか歩き出せなかった。
出家したその時、この世への未練も執着も丈なす黒髪とともにすべて断ち切ったつもりであったけれど、やはり我が産みし子への想いまでを棄てることは叶わなかったようだ。
徳子は遠く洛中まで歩いて帰るあの子が雪に難儀しなければ良いがとひたすら祈るだけだった。
大原野寂光院に住まう建礼門院、この時、五十歳になり給うとしていた―。
※
本作に登場する右京こと右京大夫は実在した建礼門院右京大夫とは別人として描いております。実在の右京大夫は出家もしておらず、寂光院に女院を訪ねたことはあるものの、俗世にとどまり平家滅亡後も内裏で女房として華やかに活躍しました。
また、安徳天皇の御衣で仕立てた幡は寂光院ではなく建礼門院が出家した長楽寺にあります。
第四話『雪舞夜〜将軍の妻〜』
涙の旅立ち
「もう、泣かないで下さい」
思いがけず優しい声音が頭上から降ってきて、瑶子(ようこ)は余計に泣けてきた。厭々とまるで聞き分けのない幼い子がするように、かぶりを振る。そんな瑶子の艶(つや)やかな黒髪をそっと撫で、惟章(これあき)は語りかける。
「京と鎌倉、いかに離れているといえども、所詮は同じこの世にあるのです。俺たちが逢おうと思えば、いつだって逢えるのですから」
でも、と、瑶子はしゃくり上げながら言った。
「惟章は簡単に言うけれど、京の都から鎌倉はあまりに遠いわ。私にとっては、あの世とこの世に引き離されてしまったのと同じなのよ」
「姫―」
惟章が瑶子の華奢な身体をそっと引き寄せ、耳許で囁いた。
「瑶子、とお呼びしても良いですか?」
愛しい男の腕に抱かれ、このまま死んでしまいたいとさえ思う、この一瞬。瑶子は心の底から頷いた。
「―瑶子」
躊躇いがちに落とされた声はどこまでも温かくて、それは瑶子の震える心の奥底に深く深く沈み込んでゆく。この声を忘れたくない、この包み込むような優しいまなざしも、瑶子が見つめると照れたように紅くなるその表情も。大好きな男のことはすべて記憶に刻み込んでゆきたい。
「ああ、このままいっそのこと、あなたをどこかに攫ってゆけたなら、どんなに良いことか」
瑶子の背に回った惟章の手に力がこもった。今、瑶子は惟章の逞しい胸板に顔を押しつけている。彼の力強い鼓動が耳から直接に伝わってきた。
逃れられないものなら、このまま大好きな男の腕の中で息絶えてしまいたい。瑶子が身じろぎすると、惟章はすぐに手を放してくれた。瑶子もまた女性としては上背のある方だが、長身の惟章は更に高い。彼の端正な顔を見つめると、こんなときなのに彼はいつものように照れくさそうに頬を染めた。
「判っているんです」
惟章は瑶子の視線から逃れるかのように、眼を伏せた。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ