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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 帝は凛々しく立派に成長していた。別れたときは六歳の童子は今や二十七、八歳ほどの精悍な面立ちの青年になっていた。
 何とご立派におなりあそばされたものやら。
 その成長を側で見守りたかったという願いもさることながら、失ったと信じていた我が子がこの手に戻ってきたことが俄には信じられず、徳子はこみ上げてくる様々な想いを抑えるのに精一杯だった。
 女院とは裏腹に、時繁は即答した。 
「私のような卑しい身が帝であるなど、畏れ多いことにございます」
 徳子は夢中で首を振った。
「母が我が腹を痛めて産みし子を間違うはずもございませぬ。そなたは、あなたはまさしく我が子、言仁さまでございましょう」
 徳子の眼から、はらはらと涙の粒がころがり落ちた。壇ノ浦で共に海中に沈みながら、母である徳子は源氏方に捕らえられ生き延び、幼い帝は徳子の母二位の尼時子と共に海の藻屑と消えた―とばかり思い込んでいたのだ。
 その幼くして逝った我が子が生きていたとは考えたこともなかった。
 徳子は時繁と名乗る若者の顔をじいっと見つめた。
―哀しきかな、我らは終生、母子の名乗りはできぬ宿命。平家滅亡の壇ノ浦合戦ははるか遠く昔になり、我らが宿敵頼朝は既にこの世におらずとも、いまだ平家の残党狩りに幕府は目を光らせている時世にございます。
 聡明そうな黒い瞳は女院に向かって静かに語りかけていた。徳子は、はるか昔に手放した我が子の言いたいことを正しく理解した。
 そう、壇ノ浦合戦のあの最中、徳子は永遠に我が子の、御子の手を離してしまったのだ。今になって、その手を取ることなどできはしない。いや、こうして互いに生きてあいまみえただけで、御仏のお引き合わせともご加護とも思わねば罰が当たろう。
 と、時繁の視線が自分の背後に向けられているのに気づいた。地蔵菩薩像の傍らには衣幡が掛けられている。
「それは―」
 物問いたげに見つめられ、女院は微笑んだ。
「亡くなった我が子が着ておった衣にございますよ」
 時繁が胸をつかれたように眼を瞠った。
「お亡くなりになったお子の衣、にございますか?」
 女院もまた背後を振り返った。それは壇ノ浦で死んだはずの幼い帝が最後まで身にまとっていた御衣だった。徳子は亡き御子の形見となった御衣を法具の幡に自ら仕立て直し本堂に飾ったのだ。幼くして海に散った我が子へのせめてもの供養になれば、その御心を鎮めることができればと願ってのことだ。
 今、その死んだはずの帝が成長してここにいる。時繁がどのような想いでそれを見つめているか、その心根はたとえ生みの母である女院ですら、うかがい知ることはできない複雑なものであるに違いなかった。
 しばし静寂が狭い本堂の空間を満たした。
 徳子は小さく息を吸い込んだ。
「今は、どのように暮らしておるのか?」
 我が子である帝が母子の名乗りはせぬというのなら、徳子はその意を受け入れねばならない。ともすれば零れ落ちそうになる涙を堪え、女院は若者に向かって問うた。
「日々、京の町を小間物を売り歩いております」
 女院は幾度も頷いた。
「野菜を持参してくれているそうじゃの」
 時繁は淡く微笑んだ。
「家の裏にささやかな畑を作り、そこで野菜を作っております」
「今まで、どこでどうしていたものやら。ずっと京におったのか?」
 それが、徳子のいちばん知りたかったことだ。六歳の幼い帝が一人で生きてこられたと思えない。第一、二位の尼に抱かれて神器ともともに海中に没したはずの帝がどうやって助かったというのか。
 だが、時繁は多くを語らなかった。わずかな笑みをその秀麗な面にとどめたまま、淡々と語った。
「私は漁師の倅ゆえ、海の側近くで育ちましてございます。父親と日々、海に出て漁をして育ちました。ふた親は貧しいながら、そうやって日々を凌ぎ私を育ててくれたのです」
 そのひと言で徳子はおおかたの事情を察した。恐らくは帝が漁師に助けられ、奇跡的に生命を長らえたのだと。
 今この瞬間、徳子にとって最も大切なのは、我が子が生きていたこと、そして、先帝である我が子を源氏に差し出すこともなく大切に育ててくれた名も顔も知らぬ漁師夫婦への感謝だけであった。
 女院は滲んだ涙の雫を墨染めの衣の袖でそっとぬぐった。
「時繁と申したか。そなたは亡くした我が子によう似ておる。年格好も面立ちも、その子が生きておらば丁度同じであろう」
 時繁が遠い瞳になった。
「私にも幼い頃、失うた母がおりました。生き別れになった母にございます。私を育ててくれたのは養父母にて」
 彼の視線が強い光を取り戻し、女院に向けれた。
「もし、その母が生きていたとしたら、伝えたいことがございます」
 徳子は息を呑んだ。
「何と?」
 時繁は一語、一語をゆっくりと区切るように言った。
「私は一度、死にかけましたが、親切な養い親に助けられ、こうしてつつがなく今に至っております。どうか母上におかれましても、これからはお心安らかに私のことはご心配なさらず、お暮らし頂きたい」
「―その言葉をそなたの母が聞いたらば、さぞ歓ぶであろうな」
 徳子は涙に光る眼で若者を見つめる。彼は更に思いがけないことを言った。
「七年前に妻も娶りました」
 徳子の眼が見開かれた。
「そうか、妻を娶られたか!」
 徳子の脳裏にまだあどけなかった帝の姿がありありと浮かぶ。無邪気に独楽を回して笑顔を見せていたあの幼い子がもう妻を迎える歳になっていたとは!
 歓びと哀しみがない交ぜになり、つい、心が逸った。
「相手はどのような娘か?」
 勢い込んで、矢継ぎ早に質問を繰り出してしまう。
「孫、いや、子はまだなのか?」
 徳子の様子に時繁はうっすらと笑んだ。
「そのように幾つもの質問には答えられません」
 笑いながら告げられたのは、七年前に迎えた妻との間には二人の娘がいるとのことだった。
「上の娘は六歳、下の娘は二歳になったばかにございます。妻は朗らかな女です。苦労をさせていると思うのですが、苦労を苦労とも思わぬ春風のような女なのです」
 女院は心から言った。
「良き娘を伴侶に迎えられたものよ。夫婦の間に身分は関わりない。良人は妻を愛し、妻もまた良人によく仕える、美しきことじゃ」
 時繁の明るい瞳を見ていれば、今の彼が暮らし向きはささやかでも、幸せであることは一目瞭然だ。きっと我が子は若い妻一人を愛し、妻もまた我が子を恋い慕っているのだろう。
―良かった。我が子には夫婦が互いによそよそしく心通わぬままで、他の女に眼を向けなければならないような生涯を送って欲しくはない。
 それでも、徳子は今一度、訊ねずにはいられなかった。
「時繁どのは今、幸せか?」
「はい」
 迷いのない返答であった。女院は安心したように心からの笑みを見せ言った。
「また顔を見せてくれ」
 だが。時繁は今度は頷こうとはしなかった。笑顔ではあったけれど、きっぱりと首を振った。
「いいえ、もう参りませぬ」
 もう、我が子には逢えぬ、その現実が徳子の胸を絶望の色に染める。時繁は穏やかな口調で続けた。
「いまだ平家の残党には厳しい監視の眼が執拗について回っております。私のような卑しい者が尊い女院さまをお訪ねしては、女院さまのご迷惑になりましょう」