華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~
しかし、残念なことに、徳子はどこまでも平凡な姫でしかなかった。可もなく不可もない、劣ったところもなければ、さりとて秀でたところもない。そんな自分が良人の気を引けるはずもないと、徳子はあっさりと諦めた。もしかしたら、良人はそんな徳子の気性を物足りなく思っていたのだろうか。
嫉妬一つせぬ、つまらない女だと。
だが、そんなはずがないではないか。この世に自分の良人が他(あた゜)し女に心を移し歓ぶ妻がどこにいるだろう? 徳子だって、高倉帝が夜ごと、他の女官を寝所に召した日は朝まで寝床でまんじりと眠れぬ夜を過ごしたものだった。
とはいえ、物心ついたときから
―おなごというものは、いつでも己が心を露わにするものではございませぬぞ。
と、周囲から教え諭された身では、その?嫉妬?と呼ぶ感情をどのように表現して良いのかさえも判らなかった。
女は堪え忍ぶもの。それが、平家の姫として、いずれは后になるやんごとなき身として育てられた徳子の矜持であり、礎でもあったのだ。
いずれにせよ、徳子と数歳下の高倉帝との結婚生活は淡々としたものだった。帝は徳子が清盛の姫だからこそ、正妻としての体面を保つだけの扱いはしたものの、皇子を儲けた後は義理は果たしたとばかりに、次々に内裏の美しい女官たちと戯れの恋に走った。
そんな味気ない日々の中で、徳子にとって唯一の慰めが我が子である幼い皇子となっていったのは自然なことだったろう。
徳子はまた人知れずため息を零した。
最後にあの子をこの腕に抱きしめたのは、いつのことだったのか。まだいとけない盛りで逝ったあの子のことを思う度に、胸は引き絞られるように痛む。
まだ六歳だったのに、母が恋しい年頃だったのに、冷たい海の底に沈んでいった我が子。平家の娘が生んだ皇子であるばかりに、帝であるばかりに、わずかな生涯しか送れなかった。
徳子はゆるゆるとかぶりを振った。何故か、今日は、あの子のことばかり考えてしまう。抱きしめたときのやわらかな身体や幼な子特有の甘い香り、すべてが今もしっかりと徳子の記憶に刻み込まれている。この世での母と子としての縁(えにし)は薄かったけれど、やがて自分も我が子安徳帝のおわす浄土にゆくときが来たら、そのときこそ叶わなかった分まで抱きしめて差し上げたい。
ぼんやりと昔の想い出に耽っていたまさにその時、背後から遠慮がちな声が聞こえた。
「女院さま、今宵は寒うなりそうでございますゆえ、鍋物などに致そうと思うておるのでございますが」
振り向けば、側仕えの右京が微笑んでいた。かつては徳子の側近く仕えた女官であり、右京大夫の女房名でその才色兼備ぶりを知られた女だ。今は徳子と同様、尼姿でこの庵に暮らしながら、徳子の世話をしている。
徳子もまたうっすらと笑みを浮かべた。
「それは良いのう」
右京は心もち肩を竦めた。
「いつもの者がまた新鮮な野菜を届けてくれております」
「そうか。ありがたいことじゃ」
徳子は両手のひらを合わせ、軽く頭を下げた。そして、ここ半年ばかりの間、十日に一度、決まったように野菜を届けてくれる者について初めて想いを馳せた。
「さりとて、半年もの間、洛中からこの大原野まで、たくさんの野菜を運んでくるのはさぞ難儀であろうに。一体、どのような者であろうか、まだ若いとはそなたから聞いてはおったが」
右京は小首を傾げた。
「年の頃は二十代後半にはなりましょうか。秀でた面立ちの若者にございます」
そこで右京が呑み込んだ言葉をこの時、徳子はまだ知らなかった。
―どことなく、亡き御方を思わせる良い瞳をした若者でございますよ。
徳子は右京の心を知るはずもなく、何気なく訊ねた。
「名は何と申すのか?」
「時繁と申しておりました」
「そう―か、時、とき―」
呟いた徳子はハッとした。弾かれたように面を上げ、右京に続けざまに問う。
「時繁と?」
いつもは静まりかえった湖のような女院の人が変わったかのような剣幕に、右京は眼を見開いている。徳子は叫ぶように言った。
「その者はいつ頃、来たのじゃ?」
「先ほど帰ったばかりにございますが」
徳子は矢継ぎ早に言った。
「早う、早うに行って呼び止めよ」
徳子にどこまでも忠実な右京は怪訝な面持ちながらも、すぐに立ち上がって部屋を出ていった。
だが、若い男の足は速く、右京が山門を出たときには既に時繁の姿は見えなかったという。少し先まで追いかけてみても、無駄脚になった。
徳子は軽い落胆を憶えた。
「今度、もしその者が来たら、必ず引き止めるように」
そう右京に命じ、放心したように居室の開け放した窓を眺めた。白いものがちらちらと舞い落ちている。今年初めての雪が降り始めたようだった。
時繁なる男が姿を見せたのは、やはりきっちりと十日後だった。その日も雪が朝から降り止まぬ一日であった。いつものように山ほどの新鮮な野菜を籠一杯にしてやってきた彼は、そのまま右京に挨拶して引き返そうとした。が、右京は女院の厳命もあり、彼を引き止めたのである。
時繁の整った面には、はっきりと困惑が現れている。が、女院の命であれば、彼をそのまま帰してやるわけにはゆかない。時繁は不審げな面持ちながらも、右京から子細を聞いて素直に従った。
この洛外のうらさびれた庵を訪ねる酔狂な客はこの雪深い季節にはいないが、たまに来る客に逢う時、女院は本堂の隣の小さな座敷を使っていた。
しかし、今日は何を思ったか、時繁には本堂で逢うとの意向だった。右京は予め命じられたままに時繁を本堂に案内した。
女院は既に本堂にいた。主従が暮らすこの庵は寂光院と呼ばれている。本堂も女性らしいこじんまりとしたたたずまいだ。
女院は今、本尊の地蔵菩薩像を背後にして端座している。その少し離れた下手に時繁なる若者は両手をつかえていた。
「面を上げなさい」
女院が声をかけても、時繁はなかなか従わない。傍らに控える右京が囁いた。
「女院のご命令です。従うように」
それで覚悟を決めたのか、時繁はゆるりと面を上げた。その漆黒の瞳が女院を真っすぐに捉えたその瞬間、徳子の背筋を戦慄が駆け抜けた。
やはり、と思った。もっとも、時繁という名のこの若者に逢ってみたいと思ったのは衝動的なものだった。しかし、女院をその衝動めいた行動に駆り立てたてのは、不思議な形容もできない勘であった。もしかしたら、それは母の勘であったのかもしれない。
溢れる感情は様々で、それらを纏めて言葉を紡ぐには更に長い刻を要した。
「―主上(おかみ)、主上ではありませぬか」
徳子の言葉に、傍らの右京がたじろぐ気配がした。
「もしや―」
右京の言葉を制するかのように、時繁が右京を鋭い眼で見た。女院は悟った。右京は帝がおん幼い時、その腕に抱いてあやしたり、独楽を回して一緒に遊んだりしたお側去らずの女房であった。流石に生みの母である女院のようにひとめ見て気づきはしなかったのだろうが、今の徳子の指摘で気づいたに違いない。
いや、この凛々しい若者の面は、確かに帝の幼な顔の名残をとどめていた。ずっと帝の側にいた右京が気づかぬはずがない。やはり、気づいていても余計なことだと口を閉ざしていたと考えた方が良いだろう。
作品名:華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~ 作家名:東 めぐみ