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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 更にまた、余計なひと言を付け加える。
「あと、短気で怒りっぽい女も」
「何ですって?」
 また拳を振り上げようとする楓をひょいと身軽に交わし、男は屈託ない笑顔を見せる。
「二度も同じ手は通じないぞ」
 フンと、楓はそっぽを向き、ややあってから彼を見た。
 静かな時間と海鳴りの音だけが二人を包み込む。しばらく見つめ合った後、楓が問うた。
「あなたの名前を教えて下さい」
「とき、言(とき)―」
 言いかけて、男は緩く首を振り、自嘲気味に笑った。また、こんな陰惨な笑い方をする。彼にはちっとも似合わないのに。どうしてか、この男がこんな風になると、楓の心まで刺すように痛むのだ。
「時繁(ときしげ)」
 今度は淀みなくはっきりと言った。
「時繁、漁師の名前ではありませんね」
「元々、親や祖父の代は武士だったというからな。まあ、身分の低い武士だったから、今もこんな名前に拘らなくても良いのかもしれないが。知り合いは皆、トキって短く呼んでるから、あんたも好きに呼べば良い」
 ひっそりとした笑みは今度は自虐的でもなく、何とも淋しげだった。何故、彼はこんな笑い方をするのだろう。
―どうして、あなたはこんな淋しげに笑うの?
 その日、楓の心の奥底に沈んだ問いは長く彼女から離れなかった。時折見せる、晴れ渡った空が翳るように見せる冷酷な表情、淋しげな笑み。見る度に、楓は胸が締め付けられるようだ。
 想いに耽る楓の耳を時繁の声が打った。
「それからな、先刻のあれは冗談じゃないから」
 物問いたげに見つめると、彼はうす紅くなった。
「ああ、鈍い女だな。俺はこれでもあんたに求婚してるんだぞ。もし、どうしても親父さんを説得できなくて、また屋敷を出るような羽目になったら、俺が貰ってやるから。贅沢はさせてやれないけど、あんた一人なら俺でも養える、いや、あんたと子どもくらいなら養えるからさ」
 律儀に言い直し、彼はニッと笑った。
 楓はその時、抱えていた疑問を彼にぶつけた。
「時繁さま、一つだけお訊きしても良いですか?」
 ブッと彼が吹き出した。
「時繁さまア? いや、済まない、そんなご大層に呼んで貰ったことがないんで、愕いた」
「時繁というのは本当の名前なのですか?」
 それは直感的に感じた疑問だった。名を訊ねた時、彼は明らかに別に名前を言おうとしていた。そこで言い淀み、時繁と応えたのだ。
 時繁はまた、ひっそりと笑う。楓の心がツキリと痛んだ。
「あんたって、鈍いのか聡いのか、よく判らん女だ。あんたの言うとおり、俺には昔、もう一つの名があった。だが、もう気が遠くなるくらい昔の話だよ。最初の名はもうこの海の底に棄てた」
「海の底に棄てた?」
「ああ、とっくの昔に棄てた。名前だけでなく、その名前で生きていたときの人生もすべて、波の下に棄てて生まれ変わったんだよ。今の俺は時繁。だから、あんたもそう呼んでくれ」
 消え入りそうな語尾が絶え間なく続く海鳴りに混じって消える。楓は何も言えず、ただ寄せては返す白い波を見つめていた。
「そろそろ帰りな。お屋敷では今頃、大騒ぎだぞ。今は親父さんを極力怒らせない方が良いんじゃないのか」
 時繁の言うとおりだ。楓は素直に頷き、時繁を見上げた。
「お話を聞いて頂いて、ありがとうございました」
 時繁が照れたように頭をかいた。
「止せやい、跳ねっ返りの姫さんに改まって礼を言われると、こっちの調子が狂うだろうが」
「それでは、これで失礼します」
 何故かその場から立ち去りがたくて、楓はその場に立ち尽くしていた。
「今は帰ることが大切だ」
 優しい声音とともに大きな手が背中をそっと押した。それがきっかけとなったかのように、重たい身体が呪縛から解けたように動き出した。
 それでもなお、心を残して、ゆっくりと歩き出した楓の背中に男の声が追いかけてきた。
「俺に逢いたくなったら、ここに来い。俺はいつでもここにいるから」
 帰れと言いながら、ここで待つという男。もしかしたら、時繁もまた楓と同様、離れるべきだと判っているのに離れがたい矛盾した気持ちを抱いているのかもしれなかった。
 カモメが白い翼をひろげて蒼い大海原の上を旋回する。繰り返す波が白砂を洗う。楓は後ろ髪を引かれるような想いで、砂を一歩ずつ踏みしめて帰り道を辿った。
 建久九年(一一九八)弥生の初め、鎌倉は由比ヶ浜で楓は時繁という不思議な漁師の若者に出逢った。

 嵐の夜

 当然ながらというべきか、屋敷に立ち返った楓はおろおろと足り乱した乳母に出迎えられ、その後、父恒正からたっぷりとお説教をされた。
 父は怒りのあまり、涙ぐんでいた。握りしめた拳を小刻みに震わせて、持ってゆき場のない感情を持て余すかのように、唇を噛みしめていた。
「どれだけ、わしの寿命を縮めたら、気が済むのだ? そなたがいなくなって、わしが平然としておられるとでも思うたか? 亡き東子(とうこ)の今のわの際の願いをわしは今でも生命に代えても守り通そうと思うておるに。もし、そなたの身に何ぞあったときには、わしはあの世の蓮のうてなにおるそなたの母に申し開きができなんだ」
 それは幼い時分から父に繰り返し聞かされた母の遺言だった。
―どうか殿、楓のことをよろしく頼みまする。
 母東子は楓を出産後、後産がなく、そのまま亡くなった。息を引き取る間際、枕辺の良人恒正の手を握りしめて涙ながらに懇願したという。
 結局、楓はゆうに一刻余りにわたって延々と父に絞られた挙げ句、自室に幽閉された。翌日から、恒正は楓に逢おうともしなかった。楓はさつきを通じて幾度も父に目通りを願い出たが、父は顔を見せてもくれない。
 しかもまた脱走することを警戒してか、部屋の周囲には屈強な家臣たちで固め、部屋の外に出ることさえ叶わない。
 日だけが徒に過ぎていった。その折々、楓はあの由比ヶ浜で出逢った不思議な男―時繁を思い出すのだった。日に三度届けられる食事もろくに手に付かないのは何も幽閉されているからではない。しょっちゅう瞼にちらつくあの男のことで心が一杯になり、胸がつかえる心地がするからだった。
 更に悪いことに、時繁の存在は日毎に薄れるどころか、大きくなってくる。ひと月ほどの間に楓はろくに食事も受け付けなくなり、ひと回り痩せた。元々の雪膚は更に白く透き通り、半病人の体になった。恒正は婚礼前に大切な娘の身に何かあってはと医師を呼んで診させたものの、特に異常は見当たらずと体力を増進させる滋養強壮の薬が処方された。
 そんなある夜。暦は既に卯月を迎えていた。鎌倉でも桜が本格的に咲き始めたある日のこと、父恒正が漸く姿を見せた。
 楓は歓び、父を迎えた。それまで床に横たわっていたが、慌てて飛び起きた。恒正は上座にゆったりと座り、楓は手をつかえて出迎える。
「しんどいのであれば、横になっていても良いのだぞ」
 恒正の機嫌はけして悪くない。というより、むしろ上機嫌であった。このひと月の間に、何があったのだろうか。楓は訝しげに父を見つめた。
 と、恒正がおもむろに切り出した。
「今日は、そなたに話が合って参った」
 父の視線を真正面から受け止め、頷く。
「私も父上に折り入って聞いて頂きたい話があるのです」